短編集44(過去作品)
口ではそう言ってみたが、ショックを受けた自分が、受話器からでも伝わったかも知れない。
とはいえ、江川氏も考えておくと言いながら、実は何も考えていなかった。那美と一緒に行くような場所が思い浮かばないのである。
妖艶な表情の時も、あどけない表情の時も両方見ているので、その日に会って顔を確認しないと、いったいどちらの那美なのか分からないからである。どちらの表情であっても想像を膨らませればいいじゃないかという人がいるかも知れない。だが、想像するにしてもどちらかの顔を思い浮かべると、ふとした瞬間に正反対の表情が思い浮かんでくるのである。想像することも難しい。
那美がどういうことを思っているか想像してしまうことがある。想像できるのは、那美と飲み屋で別れてすぐの時だけだが、飲み屋からの帰り道、星空を見ながら思い浮かべている。
――江川さんって真面目に見えるけど、ちょっと油断ができないわね――
と思っているとすれば、那美の見つめるその先に江川氏の瞳の奥があるのだろう。いつも何かを考えている江川氏は、時々自分が、
――人から怪しまれるタイプに見えるかも知れない――
と感じることがある。すぐに落ち込むところがあるわりには自信家で、だからこそ自信の元になる何かが一つでも崩壊すれば、落ち込みも激しかったりする。特に自信がある時は人の視線を何とも思わないくせに、人の視線が気になり始めると、崩壊の第一歩なのである。逆に崩壊してから気になり始めるのかも知れないと思うほど、自分のことが分かっていない。
だが那美はそれほどしたたかな女性ではない。江川氏の買いかぶりなのだが、そう思わせないところが那美の艶かしいところであり、掴みどころのない可能性を秘めた魅力なのだろう。
そんなことを考えているからだろうか。なかなか会えないとなると、他の女性が気になったりするものである。
――あれだけ那美のことが気になっていたのに――
と思うのだが、まさか少しの間会えないだけで、他の女性に目移りするような男だとは自分でも思わなかった。これも男の性だということで片付けられるものなのだろうか?
――約束していた日をずらされたからかも知れない――
彼女が約束をずらしたことへの恨みというわけではなく、江川氏自身がいろいろ想像して高ぶらせていた気持ちの照準が最初に決めた日だったからだ。日が一週間後ろにずれるということは、まるで肩透かしを食らった形になり、そのため、江川氏の気持ちまで肩透かしを食らってしまったのではないだろうか。気持ちはすでに一週間どころではない。
だが、以前の江川氏ならば、一週間ずれたくらいではあまり気にならなかったはずだ。どちらかというと、ずれたことで、却って相手への気持ちが高ぶってくるくらいだったのにどうしたことだろう。
那美と出会えたのは、自分の気持ちにゆとりがあったからだという気持ちに変わりはない。だが、そんな中不安な気持ちがあるのも隠し切れないでいる。
気持ちのゆとりのようなものは、不安を裏側に抱えながらでも持っていた。
――今なら新しい出会いがあるかも知れない――
とも思えた。
実際に目の前にタイプに女性が現われ、出会いになりそうなこともあった。それは那美と出会った飲み屋でのことではない。朝立ち寄る喫茶店でのことであった。
今でも朝は、喫茶店でモーニングサービスを食べて出勤している。出勤時間になれば店はサラリーマン、OLでいっぱいになる店だ。駅前ということもあり、慌ただしく客が回転しているが、江川氏は早めに出かけては、ゆっくりする時間を取っている。
タバコを吸うために立ち寄る人が多く、店内は禁煙席と喫煙席に別れているが、嫌煙家の江川氏は迷わず禁煙席へと向う。ここでも指定席が決まっているのだが、さすがに禁煙席は人が少ないせいか、ゆっくりできるのが嬉しかった。
禁煙席の常連はそれぞれに指定席が決まっているようだった。ゆっくりと一人でコーヒーを飲んでいると、まわりを見渡す余裕もあるのだが、一人一人を気にすることはなかった。その理由としては江川氏が人の顔を覚えるのが苦手なせいで、ちょっと見ただけでは人の顔を覚えられない。何度も見ていれば覚えるのだろうが、自分が人の顔を覚えられないタイプだと思っているから、最初から人の顔を見ているつもりでも、覚えていないのだ。覚えるつもりが最初からないと言ってもいい。
会社にいて一番嫌な時間は朝出勤してすぐである。何が嫌といって、朝の喧騒とした雰囲気がたまらなく嫌なのだ。
――忙しいのは分かるが、何をそんなにいきり立っているんだ――
と入社して赴任したその日から感じていた思いが、今まだずっと残っている。ひょっとして今なら自分もその喧騒とした雰囲気を醸し出している一人かも知れない。それだけに朝立ち寄る喫茶店でだけは、気持ちに余裕を持っていたいというのも無理のないことだろう。
寒い中、表を歩いてきて、暖房の効いた喫茶店に入ると、窓は曇っている。それだけ外気との温度差の激しさを感じるが、ゆっくり座って暖かいコーヒーを手に持つと、目が熱くなってきて、瞼が重たくなるのを感じる。苦味の利いたコーヒーが陥りそうな睡魔から救ってくれる。それが朝の喫茶店で感じる雰囲気なのだ。
今まで落ち着いた感じの女性に目が行ったが、今は軽めの女性が気になるようになってきた。
――まさか誰でもいいというわけではあるまいに――
那美を思えば思うほど、他の人の存在が気になってくるはなぜなんだろう?
時間という感覚が麻痺してきているように思えてならない。那美を思い始めてから特に感じるのだが、長さによって感じ方が今までと比較してかなり違ってきている。
一時間がやたら長く感じるにもかかわらず、一日があっという間であり、一週間前ともなると、かなり前に感じるのである、前からそんな感覚がなかったわけではないが、人のことを考えていてこんな気分になるのは初めてだ。
今までに女性のことを考えることはあったが、特定の人をずっと考えていることはなかった。自分で勝手に女性を想っていることはあったが、告白したり、相手から話しかけられることもなかったのである。他の人から、
「江川、お前彼女が好きなんだろう?」
と言われてドキッとしたことはある。図星だったからだ。どうやら江川氏は自分の気持ちが態度に出るタイプらしい。今までにも好きになった人はいたが、なるべく悟られないようにしていたつもりでも、分かっている人には一目瞭然だったようだ。
「僕は正直者だからね」
照れ隠しに笑ってみたが、顔は引きつっていたに違いない。
正直者だと言われて喜んでいたのは、今は昔、しかし今でも顔に出るのはどうしてだろう。やはり、正直者だと言われることを密かに喜んでいるのかも知れない。まるで子供のようだと思うが、そんな自分が憎めないでいる。
元々綺麗な人よりも可愛らしい人が好きだった江川氏は、背が小さくて、あどけない笑顔を見せる女性に興味を持っていた。それがいつの間にか落ち着きのある人が気になり始めたのは落ち着いた年齢になってきたからだ。
――女性に興味を持ち始めたのが遅かったからかも知れない――
作品名:短編集44(過去作品) 作家名:森本晃次