短編集44(過去作品)
「最近、ここの常連になったんですよ。那美さんはよく来られるんですか?」
「ええ、時々ですね。どうしても気分の乗らない時は来ませんけどね」
話をしていて感じたのは、時々表情が変わることだった。やはり一瞬、妖艶さが醸し出される時がある。そこがまた魅力なのだろう。
だが、急に那美の態度が一変した。その時の変化を江川氏は、きっといつまでも忘れないだろう。
「私ね。前の会社辞めたのは、上司の嫌がらせがあったの……」
この居酒屋で一緒に飲むようになってすぐに、よくこんな話になったものだ。よほど気心が知れた相手だと思ってくれたのか、それとも以前にも会ったことがあるような気がしているからだろうか、どちらもありのような気がする。
「嫌がらせって?」
聞いていいのか分からなかったが、那美が自分から言い出したのだ。とりあえず聞いてみた。
すると最初は少し俯き加減だったが、すぐに意を決したかのように顔を上げ、
「実は、性的な嫌がらせだったんです」
顔を赤らめている。
思わず想像してしまったが、いけない想像をしているようで、すぐに打ち消さなければならないと思いつつ、やめられない自分に男の性を感じてしまった。
――今、自分は那美をどんな目で見ているんだろう――
いやらしい目でないことを祈っていた。しかし、すぐにその表情がいとおしさを感じる表情に変わってきたことが分かった。
――以前にも同じようないとおしさを感じたように思う。誰にだったたかな?
思い出そうとするが、那美の顔を見ていると思い出せない。それだけ那美の表情が複雑に思え、他の人がイメージできないのだ。
最初は妖艶さ、すぐにあどけなさ、そして今は恥じらいと意を決した気持ちとが入り混じったような複雑な表情、那美の顔は一瞬にして、表情が一変するのである。
嫌がらせはセクハラに発展したようだ。
「本当はあまり大袈裟にしたくなかったんだけど、同じ事務所の先輩OLの人が、私たちに任せておきなさいって感じになってしまったもので、そこから先は私の問題じゃなくなったんです」
放っておいてほしい時もあるだろう。下手に騒ぎ立てられると辛くなるのは本人だ。那美の気持ちも分からなくない。
「それでどうしたの?」
那美は続ける。
「ええ、だから最初は任せていたんですけど、今度は他の男性社員の私を見る目が怖くなってきたんです。好奇の目で見られているような……」
第三者はどうしても無責任な目で見てしまう。もしその場に江川氏がいて、第三者として見ていたらどうだろうと考えてみた。
――やっぱり意識して見てしまうだろうな――
セクハラを受けるということはそれだけ魅力のある女性に見えてしまう。それまではただの同僚のOLとしてしか見ていなくても、そんな事件があれば、嫌が上にも女性としての魅力を探ってみたくなるだろう。意識するしないにかかわらずである。
――魅力を感じたのは、ひょっとして最初から何か秘密めいたところを感じていたからかな?
と思うのも無理のないことだ。だが、それも後から考えて感じることのように思えてならない。
「あなたといると、自分を曝け出したくなるんです。今までは人に話してはいけないと、完全に殻に閉じこもってたんですよ」
「それは光栄ですね」
まさしくそのとおりだ。女性からそう言われるのが、一番嬉しいかも知れない。人と知り合うことの基本は、
――相手を知りたいと思う気持ち、自分を知ってほしいと思う気持ち。ここからすべてが始まるんだ――
と思うことであった。相手が自分から話したくなるような男になることが一番の目標だったからに違いない。
それにしても最初にそんなショッキングなことを打ち明けるなど、那美とはどういう女性なのだろう。今まで出会った女性に、那美のようなタイプはいなかった。大人の魅力の中にあどけなさがあったり、あどけなさの中に大人の魅力を垣間見たりすることはあったが、完全なるあどけなさの裏側に完全な大人の魅力を隠し持っている女性は初めてで、二重人格ではないか思えるほどであった。
悩みの打ち明け方がいきなりだったからそう感じるのかも知れない。江川氏を信頼できる人間だとして見てくれたのならそれでいいのだが、とにかく誰でもいいから胸のうちを明かしたいと思うような捨て鉢的な考え方であれば、少し怖さを感じる。
だが、
「あなたといると、自分を曝け出したくなるんです。今までは人に話してはいけないと、完全に殻に閉じこもってたんですよ」
と言った言葉の裏側にウソがあったなど考えられない。それは江川氏がどうしても贔屓目で見てしまうからなのかも知れないが、その時の笑顔は何かの呪縛から開放された気分が漂っていたとしか思えないのだ。
その日の江川氏は、それ以上のことを聞こうとはしなかった。聞きたいのは山々だったが、ここで焦って聞いてしまうと、今度は顔を合わせにくくなるだろうと感じたからだ。いくら今彼女が話したいからと言って全部聞いたとしても、女性というものが感情で突っ走るところがあることを考えると、時間が経って我に返るにつれて、自分の話したことに対して、恥ずかしく思うこともあるだろう。そうなるとなかなか話をしづらくなるものではないか。
――急いてはことをし損じる――
という言葉もある。慌てても仕方がない。
江川氏はいきなり出会った人に一目惚れをすることは今までに一度もなかった。
「僕は最初に人の顔を見て判断した性格で、自分の気に入った人でないと好きにならないタイプなんだよ」
と友達に嘯いている江川氏なので、少なくとも、性格の判断ができるまで相手を好きになることはなかった。それでも惚れっぽい性格のようで、時間が経てば経つほど、相手への気持ちが強くなる。情に流されやすい性格だと自分でも感じていた。
江川氏にとって馴染みの店に足しげく通うのは、いずれは出会いがあるのではないかという気持ちがあったのも否定できない。特にお酒を酌み交わしながら話していると、本音の世界で気持ちが入ってくると感じたからである。普段、自分をあまり表に出さない人もアルコールが入ると本音が言えるはずだ。
だが、江川氏自身は少し違う。普段から物静かなのだが、アルコールが入っても、あまり自分を曝け出すようなことはない。もし曝け出すことがあるとすれば、自分の気持ちを曝け出したくなるようなそんな雰囲気を持った女性の出現を待つしかないと思っていた。求める出会いとは、そんな出会いなのだ。
那美と何度か居酒屋で一緒になった。何度目かの時に、
「今度どこかに行きませんか? 昼間から一緒にいて、夜ここに来るというのもいいかも知れませんよ」
と誘ってみた。那美の表情を見ていると、格別嫌そうでも嬉しそうでもない。無表情だった。
那美が江川氏にどういう感情を持っているか、その時には分からなかった。一緒に出かける約束をして、ちょうど三日後、那美から電話があり、
「ごめんなさい、せっかくのお約束だったんですが、一週間ずらしてもらえませんか?」
という。
「ああ、いいよ。それまでに僕もどこに出かけるか、もう少し計画を練ってみることにするね」
作品名:短編集44(過去作品) 作家名:森本晃次