短編集44(過去作品)
白い煙に浮かび上がる店内への明かり、影を作って見えたのは、最初からだった。その影に温泉の雰囲気を感じてしまったが、普通の人だと感じないだろうと思うと、思わず苦笑いをしてしまいそうになった。
――これが自分の求めていた居酒屋の雰囲気なんだ――
と感じることが苦笑いの本当の意味に違いない。
皆本当に静かに呑んでいる。テレビがついていて皆の視線はテレビに向っているが、見ているのかどうなのかは分からない。当の江川氏も、気がつけば視線はブラウン管を見ていたが、直視しているわけではなく、内容は分かっていない。何となく音がする方に視線が行っているというだけなのだ。
その日から常連になった江川氏は、翌日から決まった時間に店に立ち寄るようになった。仕事が落ち着いてきたというよりも、段取りさえうまくやればキチンと定時に終了できる要領が分かってきたのである。コツさえ掴めば、あとは慣れ、サラリーマンとしての極意なのかも知れない。
それが一日の仕事を終えた充実感に繋がるのだ。仕事がそのまま満足感に繋がるのは、きっと第一線の仕事をしているからかも知れない。
「役職などつくと、なかなか充実感を感じることもなくなるからね。あまりいいことではないんだろが」
と最初に呑みに連れて行ってくれた時の上司がこぼしていた。きっと本音に間違いない。
その日は、ちょうど溜まっていた仕事のほとんどを済ませた日だった。仕事を終えた充実感が一番あるとすれば、こんな日なのかも知れない。そしてこんな日にはゆとりも一緒に感じられるというものだ。
――こんな日は素敵な出会いがあったりするんだろうな――
何でもできそうな気分になっているから感じるのだろう。そして今までそう感じると実際に実現していたように思うのは、まんざら錯覚でもあるまい。だが、一番人恋しい時、今のような寂しさが、鬱状態になりかかっている第一歩なのかも知れない。
那美が江川氏の前に現われたのは、そんな時だった。心の隙間のどこかを開けていたに違いない。心の中に入り込んでくるのを感じた。普段から他人の侵入を頑なに拒むような性格である江川氏は、人を前にすると殻に閉じこもってしまうところがあったのだ。
普段から寂しいと思っているくせに、最初からガードを固めている自分が不思議で仕方がなかった。どこからともなく漂ってくるはずの香りまで、シャットアウトしてしまっているようだ。
香りとは、言わずと知れた女性の色香である。子供の頃には感じたはずの大人の女性の色香を反射的に拒んでいた。母親が派手目な格好が好きで、父親がそれに対して苦言を呈していたのを見ていたし、自分自身も女性というものを知らない時期だっただけに、母親としてのイメージにかけ離れた実母が、遠い存在に思えてくるのが嫌だった。
そんな母親を見ていれば無意識に寂しくもなるというものである。自分の心にトラウマを植えつけた母親を憎んだ時もあったが、それも今は昔、すっかり落ち着いた母を見ていると、今では自分の寂しさがあながち母親だけのせいではないように思えてきた。
そう感じてくると、女性の色香に敏感になってきた。しかもそれが少し歪んだ形ではないかと思えてきたのだ。そのために女性の色香に反応する前に必ず一旦自分の殻を作ってしまう。何の必要があるのか分からない。だが、絶えず感じている寂しさに逆らうことはできないでいる自分を感じる。
だが、自分の殻に閉じこもろうとする江川氏を、殻に入る前に引き止める女性が現われた。それが那美だったのだ。普段は自分から話しかけるなど今までになかった江川氏だが、那美に関しては何のわだかまりもなく普通に話しかけられた。
もっともどうやって話しかけたか、言葉など覚えていないが、しいて言えば、女性に話しかけるのが初めてなどというのが、自分で信じられないほどであった。
那美という名前もすぐに教えてもらった。自分から名乗ったからというのもあるのだろうが、それだけでも違和感のなかったことは計り知れる。
「何だか、以前から知り合いだったような気がしますね」
二言三言会話を交わした後に、那美の口から出た言葉だった。形式的な話しかしていないにもかかわらず出てくるということは、江川氏の気持ちが伝わったのだろうか?
「私も同じことを考えていたんですよ。きっと前にも会っているんですよ」
冗談めかしてはいたが、半分は本音だった。
それを聞いて頷いている那美だったが、自分に納得しながら頷いているように思えてならない。那美の顔を見ていると、穏やかに見える表情の奥に頑ななものを感じ、自分に納得いかないことを許せないタイプに思える。それは江川氏にも言えることで、特にモラルを守らない人間など許せないタイプであった。
電車内の携帯電話の使用、歩きながらのくわえタバコ等々、まだまだ見ているだけで許せなくなることも多い。
きっと、考えすぎるからだろう。モラルを破るとどうなるかということを考えすぎて、どうしていけないかを思い描くと、それだけでモラルを破る人が許せなく感じられる。当たり前のことを考えられないバカどもだと思うからであって、深い考えを持たないで、自分を正当化させることしか考えていないような連中に腹が立つのだ。
最近では、その考えすぎが自分に災いとして降りかかってきているような気がする。余計なことを考えてしまっては、他人を見る目が変ってしまう。相手がそのことを敏感に感じる人であれば、鬱陶しく思うことだろう。
もし相手が自分の立場なら、嫌な気分になるに決まっている。
そのため最初に殻を作ってしまうのだが、無意識な防衛本能の表れだろう。そんな殻をたくみに掻い潜り潜入してきたのが那美という女性だったのだ。
衝撃を受けたことはいうまでもない。そこに言葉があったわけではない。表情で感じたというわけでもない。ただ、気持ちの中にドキリとするものがあり、それが那美の侵入を許した。そのことにどうして気付いたのか、自分でも分からなかった。
――以前にも感じたことのある思いを感じたからだ――
考えられるとすれば、それしかない。今までに感じたことのない思いだった。
話をしてみると、最初の内容はあどけないものだった。学校を卒業して一旦会社に就職したのだが、今は派遣社員をしているようだ。パソコンインストラクターという名目のようであるが、やっていることはコンパニオンに近いらしい。スリムで背が高いから目を瞑って想像すると、ビジネススーツやタイトスカートが似合いそうだ。
話している時の笑顔は最初に感じた妖艶さに比べ、その屈託のなさにギャップを感じてしまいそうだ。そこが閉じこもっていた殻を破ることに繋がったのだろう。
しかも以前にどこかで会ったことがあるという感覚は、次第にどちらの那美なのか分からなくなっていた。最初感じた妖艶さは一瞬だけだったように思う。しかし、殻をぶち破ったのは間違いなく妖艶さを含んだ那美だったことには違いないだろう。
「ここのお店にはよく来られるんですか?」
那美の声は少しハスキーだが、そのわりには想像していたより高い声だ。妖艶さがハスキーさを感じさせ、あどけなさが声の高さを感じさせるのかも知れない。
作品名:短編集44(過去作品) 作家名:森本晃次