短編集44(過去作品)
どちらかというと落ち着いた感じの女性で、今まで付き合った中で一番忘れられない女性だったかも知れない。ある意味妖艶な雰囲気を醸し出していて、大人の魅力をいかんなく発揮していた。
背が高いところが最初に感じた魅力だったが、背の高さよりも考え方などに大人の雰囲気を感じた。
妥協を許さない性格というべきか、自分に厳しいところがある女性だった。それだけに人からの信頼が厚いことは分かっていたので、そんな目で見るからだろうか、時々自分には太刀打ちできない気持ちになる江川氏だった。
付き合いが長ければいいというものではない。特に短くて忘れることのできない人もいる。それは江川氏に限ったことではなく、誰であっても同じことだ。
その喫茶店を最初に紹介してくれたのは彼女だった。別れてからはいかなくなったが、そのため彼女とは、それ以降出会ったことがない。付き合っている頃は待ち合わせているわけでもないのに、店でよく出会ったものだ。虫の知らせのようなものがあるのか、
――今日行けばいるかも知れない――
と感じる時は、間違いなくいたのだ。霊感が強い方なのだろうか。
会いたくない時に必ずいて、会いたい時に会えない人も結構いる。付き合っている人に限らず、友達にもそういう人がいた。自分にとって都合のいい悪いは関係ない感覚なのだろう。
むしろ、会いたくない時にいて、会いたい時にいない人の方が多いのかも知れない。親密になればなるほど感じることで、親密でなければ気になることもなく、あまり意識しないだろうが、実際に親密になると序実に感じてくる。それだけ相手への思い入れも強いというものだ。
喫茶店は交差点のようなものだ。利用する人はそれなりの思い入れを持ってやってくるのだろうが、喫茶店は変わることなく同じように皆を迎え入れる。そこでは毎日幾人とすれ違っているが、それを見届けている店のマスターにしても、意識を持って見ていないに違いない。
喫茶店での出会いを真剣に考えているやつもいたが、さりげない出会いでないと、なかなか気心の知れた人には出会えないかも知れない。それは、会いたいと思ってもなかなか会えない人が多いからではないだろうか。自分にとって求める相手がそう簡単に見つかるのでは人生面白くないと豪語しているやつもいた。
きっと彼女ができない言い訳かも知れない。豪快な人間ほど、意外と繊細な面を持っているものではないだろうか。江川氏は繊細に見えて、いい加減なところがあると自分で思っているので、その逆なのだと解釈している。
彼女と別れたことが自分にとっていいことなのだと思うしかなかった。それからしばらくは、女性というものが信じられなくなり、彼女がほしいとも思わなくなった。
――あれだけ彼女がほしいと思っていた自分が――
実に自分でも納得がいかない時期だったが、今から考えれば彼女の妖艶な魅力に、心が奪われたままだったからかも知れない。知り合ってすぐの頃を思い出そうとするが思い出せないのは、それ以降に感じた思いが強かったからに違いない。
――オンナの魅力に参ってしまうなど、ナンパな男である証拠だ――
と思っていたのは、彼女と知り合う前、本当のオンナを知らなかった頃だ。
初めての相手は彼女だった。彼女は江川氏が初めてでも態度が変わることなく接してくれた。緊張も最小限に抑えうまく行ったのも、そんな彼女の心遣いのおかげだろう。
そんな彼女と別れる結果になったのだが、理由がハッキリとしない。どちらから別れると言い出したのか覚えていないし、別れる素振りもお互いになかった。自然消滅というほどあやふやなものではなかったはずだが、なぜなのかがハッキリとしない。
それから違う馴染みの店を持つようになった。どうしても彼女との思い出のある店に足を踏み入れる気にはなれず、もう少し明るい店を好むようになっていた。
時々街を歩いていて似た人の後姿にドキリとするが、それも一瞬、あっという間に現実に戻される。
大学を卒業すると馴染みの喫茶店以外にも居酒屋が馴染みになってきた。
喫茶店はゆとりを求めに、居酒屋では仕事が終わった充実感を味わうために、そしてアルコールが誘う世界を楽しみたかったのだ。
朝の雰囲気が喫茶店であり、夜が居酒屋、明確に分かれている。
居酒屋では、香りというよりも匂いである。炭火で焼く白く煙たい匂い、食欲をそそる匂い、仕事で疲れた身体にはとても刺激的だ。以前からイメージしていた赤提灯とほとんど変わりがない。そして、以前にイメージした赤提灯に馴染みの店を作りたかったのも事実だった。
最初に居酒屋に立ち寄った時も一人だった。一見さんを嫌がる店もあると聞いていたので、さすがに最初は緊張した。無難なところで、少し広めの焼き鳥屋に寄ったものだ。
だが、考えてみれば最初は皆一見さんではないか。バカバカしくて笑いがこみ上げてくる。
家の近くに新しい居酒屋ができたのは偶然ではあったが、実にありがたかった。まるで自分に、
「常連さんになってくださいよ」
と言っているようなものである。開店から数日して、いわゆる、ほとぼりの冷めた頃に立ち寄った。開店当初は物珍しさから、きっと客も多いだろうと踏んでいたからである。実際、開店当初は思ったとおり客は多いようだった。常連客で店内がいっぱいならともかく、冷やかし、野次馬の類が多い時に行っても面白いわけもない。元々人込みを好まない江川氏は、ほとぼりが冷めるのを待っていた。
一週間もすれば、客はだいぶ減ってきた。残った客のほとんどは常連客になるのではなかろうか。そう思うと、
――そろそろ立ち寄ってみるか――
とその日は朝から立ち寄ることを決めていたのだ。
仕事が終わり、店の前まで来ると、赤提灯の明かりがいつもより明るく見えたのは気のせいだろうか?
今までは店の中から馬鹿笑いのような大きな声が聞こえていたが、正直、江川氏は嫌悪感を持って見ていた。きっと表情も歪んでいたことだろう。品がなく見えるのだ。いつもなるべく気持ちだけでも紳士でいたいと思っている江川氏にとって、店内から聞こえてくる馬鹿笑いは下品そのものだった。
縄のれんの掛かった、いかにも居酒屋風の入り口を入ると、カウンターがメインで奥に二つほどテーブルのあるこじんまりとした店内になぜか安心感を覚えた。カウンターの前にあるショーケースの中には仕込み後の串に刺さった肉や魚介類が所狭しと並んでいる。いかにも江川氏の好みの店であった。
店内には若者もいたが、別に騒ぐでもないし、ゆっくりと呑んでいた。さすがに常連として残る客というのは、江川氏が考えている上品な人が多いようである。
「いらっしゃい」
マスターが、奥からおしぼりを出して、カウンターに置いてくれた。一番奥の席が空いていたので、そこに座ったが、元々空いていてもそこに座るだろうと思っているところだったので、嬉しかった。その席が今後も江川氏の指定席になったことは言うまでもない。
皆暗黙の了解なのか、自分の指定席は決まっているようだ。一番奥の席から見渡す店内が一番広く見えるような気がする江川氏は、奥という指定席を求める理由はそこにあると人に聞かれても説明ができるだろう。
作品名:短編集44(過去作品) 作家名:森本晃次