短編集44(過去作品)
店の雰囲気も少し違っているはずである。どこが違うと一言では言えないが、明るさが微妙に違うようだ。大学時代に行った店の方が幾分か明るかったように思える。
明るかっただけに、却ってこの店に比べて、店内は狭かったように感じる。暗いと全体を見渡すには少し苦しい。しかもまだ入ってすぐのこの店の全体像が浮かんでこない。
――暗い店内だけに、いくつかの影が気になってしまう――
カウンターの影、椅子の陰、焼き鳥の焼ける煙でできた膜の向こうにも影が見えてくるではないか。
その影は人物を大きく見せる。奥で仕込みをしているマスターが大きく見えているのはそのためかも知れない。
影のせいでマスターがシルエットでしか見えない。向こうからもそうであろう。カウンターにいる男と女、第三者が見れば実にうまくいっているカップルに見えることだろう。まさか今日初めて会った二人だと思うこともあるまい。
そんなことを考えていると、本当にもう一人の自分がいて、客観的に二人を見つめているような気がした。
今まで年上に興味を持ったことなどなかった吉塚だったので、どうしてこれほど違和感がないか信じられなかった。
年上で気になるといえば、小学生の頃に遊びに行った友達の家で、色っぽいお母さんがいて気になったことはあった。わざとではなかったが、トイレに行こうと友達の部屋から廊下に出て、言われるままに歩いていたが、ふと物音がするのに気がついた。覗く気などそれまでならなかっただろうが、あまりにも静かな廊下に響いたその音は、思ったよりも大きかったに違いない。
摺り足で音のする方に向って歩いた。どうして摺り足にしたのか今思い出そうとしてもその時の心境は思い出せないが、普段から臆病だった吉塚少年が、ドキドキしながら勇気を出して歩み寄ったのだ。怯えが身体を浮かせてしまっていたに違いない。
息を殺して覗いてみると、そこはお母さんの部屋だった。今しも着替えの最中で、下着姿があらわになって、鏡を見ているその姿は、子供心に、大人に近づくことがどういうことか、身体の一部が反応したことで分かったような気がしたくらいだった。
――見てはいけない――
金縛りに遭ったように身体が動かない。このままでは最後まで見てしまう。それだけはいけないと思い、何とか身体を動かそうと懸命な努力を続けるが、却って息が荒くなるだけだった。
――湿気を帯びた空気――
息苦しいほど重苦しい空気が漂っている時ほど、空気に湿気を感じるものはない。それを初めて知ったのもその時だった。
鏡の向こうに写ったお母さんの顔が驚きに変わった。しかしその表情は一瞬で、子供にはハッキリと説明のできないような何とも言えない表情に変わったのはそれからすぐ後だった。
――口元が耳まで裂け、怪しく歪んでしまいそうだ――
ちょうどその頃に学校で流行っていた妖怪の話「口裂け女」を思い出した。
後ろ向きに屈みこみ、気持ち悪そうにしていて、通りかかった人に心配をさせる。前かがみになって震えていて、苦しそうな声を発しているのだろう。
「大丈夫ですか?」
声を掛けられた女は待ってましたとばかりに起き上がると、顔にはマスクがしてある。
確かマスクをしていると聞いたはずだが、人によってはしていないと言っている人もいたようだ。
「私、きれい?」
これが決まり文句で、その瞬間にマスクを取ると、その顔は口元が耳まで避けた女だったというお話である。
だから、その女がどんな危害を加えたという話は聞いたことはないのだが、気持ち悪い妖怪のお話として子供の頃に話題になった。そのお話が見てはいけないものを見てしまって、金縛りにあった友達の母親とダブってしまったのだ。
お母さんの身体は実に綺麗だ。子供心に、
――こういうのを綺麗だっていうんだろうな――
と目を離すことができないくらいで、その熱い視線にお母さんが気付かないはずもなかった。
胸を隠そうとしているお母さんの慌てた顔は、熟年の女性には見えなかった。まだ十代の乙女という雰囲気があり、事実可愛らしさといじらしさを感じたくらいだ。子供が感じるのだから勘違いなのかも知れないが、ずっと大人になってもその時が勘違いでなかったと思い続けている。
――年上の女性を意識したのはその時が最初だった――
と言えるに違いない。
しかし考えてみれば、それまでに異性を意識したことなどない。吉塚が女性を意識し始めるのはそれからずっと後の、中学二年生になってからだ。
ということは、異性というものに一番最初に興味を示したのはかなり年上に対してということになる。それも小学生の頃のたった一瞬のことである。
――気持ちの中で認めたくなかったんだろう――
見てはいけないものを見てしまったという自責の念はいずれ自己嫌悪に変わり、それが異性に興味を持つ年齢を引き上げたのかも知れない。自分の母親くらいの年齢で妖艶な女性を見ると思わず目を逸らそうとするが、却って凝視してしまいそうな自分は異性に興味を持ってはいけないというトラウマを抱え込んでしまったのかも知れない。
それからといもの、同年代の女の子は気になるが、年上の女性に対して、相手が女性だという意識を持たないようにしていた。自分が年齢を重ねて行こうとも、意識する対象年齢は三十代前半、友達のお母さんの年齢に限定されていた。それ以上の女性には、すでに女性として意識することはなく、それ以下の女性でも、会社の上司のような存在で、これも異性として意識するには及ばない存在であった。
マスターが、急に話を始めた。シルエットで見えていたはずのマスターの姿がハッキリと見て取れたのは、その時が初めてだった。お酌をしてくれた女性を意識していたが、さすがに空気の重苦しさを感じ始めていた時だったので、タイミング的にはちょうどいい。
お酌をしてくれた女性とじっと見つめ合っていたいという気もしていたのだが、それは最初から難しいことは分かっていた。昔のトラウマがそれを許さないからだ。マスターが話し始めたことはまさに渡りに船、ありがたいことだった。
マスターの年齢は最初いくつか分からなかった。かなり年上なので、想像の枠を超える年齢であることは分かっていたが、五十代から六十代といったところであろうか。
「昔、このあたりはほとんどが田んぼでね。カエルの声なんかがうるさかったものだよ。私なんか、子供時代を戦後の動乱の時期に過ごしているから、それはもう食糧事情なんて大変なものだったんですよ」
そんな話から始まり、当時のこのあたりの事情や、生活習慣、さらには政治情勢までいろいろと話してくれた。
両親から聞かされた内容に似ていた。きっとマスターは自分の両親とそれほど年齢的に変わらないだろう。やはり最初に感じた五十代から六十代といったところという感覚に間違いはなさそうだ。
横を見ると、お酌をしてくれた女性のまなざしが輝いていた。まるでその時代を知っていて懐かしさを感じているのか、目が潤んでいるように見えた。
――まさかそんなはずはないよな。しかし、その時代の話を知っているとしても誰から話を聞いたというのだろう――
吉塚の年齢なら親からというのも頷けるが、彼女では少し中途半端だ。
作品名:短編集44(過去作品) 作家名:森本晃次