短編集44(過去作品)
と言われて驚くこともあるくらいだ。思わずトイレで鏡を見ると赤くなりかかっている自分の顔にビックリしてしまう。
――適当なところでやめておこう――
まだ自分の適量を知る前は、そんな風に考えたものだ。今ではそんなこともなく、どれだけ呑めば大丈夫か分かっているので、あまり顔の火照りは気にならなくなった。
接待の時でも、最近は最初から呑めないことを話しているので、あまり呑まされることもない。接待といっても軽く呑む程度にしておかないと、どこの会社も経費節減にやかましいので、そのあたりは、相手も心得ているようだ。呑めない人間に無理に進めたりはしない。
少し時間の感覚が麻痺してき始めただろうか。だが、まだ酔っているという感覚がしない。時計を見てみると入ってからまだ三十分も経っていない。普段であれば、こういう状態になった時、帰ろうかと考えることが多い。
――酔いと時間、そして自分の感覚にそれぞれ少しずつずれが生じているように感じる――
そんな気分なってくるとこれ以上いても、帰るきっかけを自分で逃してしまいそうになり、そのまま飲み続けて、結局次の日辛くなるのは自分なのだ。今までにも何度か同じような思いをしたことがあるが、えてしてこういう感覚のずれを感じる時というのは、精神的に安定している時が多い。それだけに、このまま帰ってしまうのが惜しいと感じるのだ。
では一体何が惜しいというのだろう?
そういう時に限って、何かいいことが起こりそうな気がして仕方がない。
――このまま帰ってしまって、その機会をみすみす見逃すのは惜しい――
と考えるのだ。
――もう少しだけ待っていれば――
この感覚がズルズルと、その場を支配してしまう。まるで当たりそうだと思って座ったパチンコの台が出そうで出ない時の状態だ。
もっともパチンコ台でそういう状態に入り込むと、完全に相手の思うつぼに嵌っている時なのだ。
分かっているのにやめられない。まさしくその感覚である。
しかし、実は吉塚にとってこの感覚は嫌いではない。確かに何か心にわだかまりがあったり、何かに焦っているような精神状態の時であれば、後から襲ってくる後悔の念に苛まれることだろう。しかし、精神的に落ち着いている時は、後から思い返しても後悔の念はない。どちらかというと、
――贅沢な時間の使い方をしたんだ――
という感覚が強く、嫌な気分に陥ることはない。さらに背中が曲がり、カウンターについている肘が前に向っている。完全に腰を落ち着けている雰囲気だ。
――誰かに見られているようだ――
頭の中でもう一人の自分が斜め上から見ている感覚でいるのだが、見られている感覚はそれとは少し違うように思う。視線は同じ視線で、自分が見ている視線のようなさりげなさではないように思えるのは気のせいだろうか。どちらかというと、少し強い視線である。そうでなければ、自分を眺めている感覚を味わいながら、他の視線を感じることなどできないだろう。
徳利を手に持って揺らしてみる。
――まだ半分くらい残っているかな――
マスターは相変わらず忙しそうだ。
――さっきも同じことを考えた気がする――
まったく動いておらず同じ行動を繰り返しているだけなので、空気の動きすら感じることもなくなっているようだ。同じことを繰り返していても別に不思議のない感覚に陥っているのだが、これも時間の感覚が麻痺しているからだろう。
ふっと表を見てみた。
縄のれんがまったく動いていないと思っていたのだが、さらっと風に靡いたように思えた。次の瞬間、縄のれんを避けるように一人の女性が入ってきた。
彼女はニッコリとこちらに微笑みかけている。マスターは気付かないのか、声を掛けようとしない。
吉塚は、入り口の女性の視線に釘付けになったが、気がつけば微笑み返している。自分の意志によるものではなく、まったくの無意識なのだ。これも酔いが回ってきているからだろうか。
「いらっしゃい」
相変わらず気の抜けたような声である。そのためか、吉塚の視線は、マスターの声を聞いても後ろを振り返ろうとはしなかった。
ゆっくりと近づいてくるが、足音はほとんど聞こえない。白いワンピースが後ろの縄のれんと少し不釣合いに見えるが、年の頃はそれほど若い女性ではない。
見た目で女性の歳を判断することほど難しいものはない。最初に見た瞬間は同い年くらいに感じたが、見れば見るほど歳が増えていくように思えた。
――三十代後半くらいかも知れない――
近くに住んでいる主婦だろうか?
もし主婦だとしても、この時間一人で呑みにくるというのも不自然である。
彼女は吉塚から視線を逸らすことなく、彼の隣の席に座った。
座り方もどこかセクシーで、
――どこかのスナックの女性かな――
とも感じさせたが、化粧はそれほどしていないようだ。元々化粧の濃い女性は苦手な吉塚には嬉しかった。化粧をしている女性はどうしても自分を飾って男性に見せたがるというイメージがあり、ありのままを見せたり、見せられたりすることに相手の気持ちを感じる吉塚だからこそ、化粧の濃い女性を相手にするのは苦手だった。
――きっと会話にならないだろう――
まず、吉塚自身が意識してしまう。意識してしまっていることを相手が分かってくると言葉が出てこない吉塚に対し、掛ける言葉が相手にはないだろう。会話が停滞してしまってはその場の空気は果てしなく重い。そして、身動きが取れなくなる。襲ってくるのは苦痛だけなのだ。
だが、今隣に座った女性は違う。彼女の微笑みは会話に匹敵するものを感じた。会話が停滞すれば出てくるはずもない言葉を、その時は探そうとする気持ちがあったのだ。
こんな気分は久しぶりである。
空になっているお猪口にいち早く気付いてくれたようで、
「私がお注ぎしましょう」
といい、徳利を両手で添えるように持ち上げた。
隣に座られて違和感はない。むしろ、前にも同じようなシチュエーションがあったのを思い出しているかのようだ。徳利を持つ手が小刻みに震えているのも初々しさを感じさせる。手付きが鮮やかに見えるだけにそのアンバランスが新鮮だ。
マスターが彼女の横にお猪口を持ってくる。
「では、今度は私がお返ししましょう」
ほのかに赤くなった表情で見つめながら、やはり両手で大事そうに自分のお猪口を持ち上げた。目は何かを求めるようなまなざしを示している。
表は少し風が吹いてきたのか、縄のれんが揺れているように感じる。さすがに重たいのか、布の暖簾と違い揺れがかすかである。それだけに揺れを感じるほどの風が吹いているということは、思ったよりも強い風に違いない。
「風鈴の音が」
彼女が蚊の鳴くような声で囁いた。
「風鈴?」
吉塚には風鈴の音が聞こえてこない。かといって彼女の聞き違いだとも思えない。風の強さを感じたのは事実だからだ。
風鈴というと学生時代の彼女を思い出す。あどけなさを感じていた学生時代の彼女と、
熟年の魅力を感じる目の前の女性とでは、似ても似つかぬところがあるはずなのに、風鈴という言葉を聞いて、今いる場所が大学時代に一度だけ入った縄のれんの店を思い出したのだ。
作品名:短編集44(過去作品) 作家名:森本晃次