短編集44(過去作品)
赤いポスト。小さい頃に遊んでいたこの一帯、その頃から変わっていないのは、赤いポストの存在だけだ。
横丁へ入る時に、何かが気になると思ったのだが、赤いポストの存在だった。昼であれば、ポストは目立つのだろうが、赤提灯があまりにも派手なので、夜は同系色のポストは目立たない。
――昼、通りかかって、果たしてポストに気付くかな――
きっと赤提灯がなく、店の閉まっている昼間は、この角自体あまり目立たないだろう。
近くに文房具屋かタバコ屋があるのだろうが、夜の雰囲気からは想像もつかない。
小さい頃の思い出が一瞬頭をよぎったのもポストに気付いたからだろう。だが、気付いてもまるでそこにあって不思議のないものが、佇んでいるだけにしか見えない。灯台下暗しともいうが、そこにあって不思議のないものは得てして目に付きにくかったりするものである。
――まるで石ころのようだ――
石ころと比較してはいけないのだろうが、彼女もそばにいて違和感のない存在だった。すぐに別れてしまったのだが、一緒にいる時は、ずっと前から知り合いだったような気がしていたし、別れてしまえば、寂しさはあったが、なぜか追いかけようという気にもならなかった。
存在感のないような女性というのは、
――かまってあげたい――
と思うような人もいるようで、吉塚などはその典型かも知れない。人見知りする女性が自分にだけ心を開いてくれるようで、自分が人見知りするタイプの男性は特にそうである。
――僕もあんまり自分から人に接する方じゃないからな――
そういう人だけでグループを作って群がっているのも、あまり好きではない。表から見て初めて分かったことだった。
だが、相手が女性だと可愛らしさがある。同類相憐れむの気持ちなのかも知れないが、
――自分には女性ホルモンが強いのかも知れない――
と、母性本能を感じてしまうのだ。
横丁を通り抜けることで初めて見つけた縄のれん、大学時代の懐かしさとは違うものだった。中を覗くと誰もいない。今の吉塚にとっては、願ってもない環境だった。
別に一人になりたいというわけではないが、田中部長の接待をと考えていたので、気分的に中途半端である。騒がしいとイライラするのは自分でも分かっているのだ。
――どう見ても、ここは静かな雰囲気にしか見えないな――
彼女と行った縄のれんとは雰囲気が明らかに違うのに、
――縄のれんは静かでなければいけない――
と自分で勝手に決め付けてしまっているかのようだ。
縄を手で避けるようにして中に入る。風通しがいいせいか、それほど暑く感じないのは気のせいだろうか。
「いらっしゃい」
奥からマスターの声が聞こえる。声が響いているように思うのはそれだけ静かだったからだ。だが、マスターの声にはあまり精気が感じられない。淡々とした口調なのだ。さすがに虫の声が聞こえてくるほどではないが、風通しのよさが空気を縦貫させ、耳の通りをよくしているようだ。
ちょうど照明の下にいるマスターの姿が大きく見える。鉢巻をしていて五部狩りなので余計にがっしりした身体に見えるのだろう。
カウンターがメインの店で、奥には二つほどのテーブルがあるだけだった。どこの店に行っても同じなのだが、一人で入った店ではカウンターの一番奥に座るようにしている。
――きっと人間の習性のようなものかも知れないな――
何の意識をすることもなく、いつも同じ場所である。常連になればなるほど自然と指定席が決まってくるのはきっと自分に合った席を自分なりに見つけているからだろう。それは座席に限ったことではない。習性という意味では人生にも言えることでもあるのだ。
分相応という言葉があるが、それを自覚していなければ、考え方の行き違いや、性格の不一致によって、世の中を形成する歯車としての個人の能力が生かさせることもない。
――神様って本当にいるんだな――
分相応という言葉を考える時、信じたことのない神様が見えてくるように思えるから不思議だった。
焼き鳥が焼ける香ばしい匂いに混じって、木目調の匂いも感じられた。他に客がいないことは空気が新鮮だという意味でもありがたかった。タバコを吸わない吉塚にとって、禁煙コーナーのない飲み屋は少し辛いものがあった。しかし、それでも焼き鳥を食べながら一人佇む居酒屋の雰囲気には勝てず、時々禁断症状のように味わいたくなるのだった。
特に今日のように中途半端な気分のまま家に帰りたくないと思っている時など、禁断症状が起こりやすいに違いない。人恋しいくせに、一人で佇んでいる自分を想像すると、なんともいえずいじらしく感じられるのだ。
本当であれば、この時期は生ビールがおいしい時期である。しかし、吉塚はビールは苦手で、おいしいと感じるのは最初のいっぱいだけだ。後は苦さだけが残ってしまって、炭酸でお腹が膨れる辛さを味あわなければならない。
「熱燗をお願いします」
熱燗だと、お猪口で一人、ゆっくり自分のペースで飲むことができる。舌で転がすようにゆっくりと呑めるところが好きなのだ。ちょっと辛口で、焼き鳥のたれが口の中で残っていると、日本酒の辛さが、さらにたれの味を長引かせてくれる。それが好きなのだ。
カウンターに肘をつきながら、少し前かがみになって、お猪口を口に運んでいる姿を想像している。あまり恰好のいいものではないだろうが、仕事が終わってゆっくりしたいと思っている時に、一番精神的にもくつろげる姿のように思えてならない。サラリーマンが仲間とくだを巻きながらワイワイ呑んでいる姿を想像するよりも、よほど人間らしさを感じるのは吉塚だけではないだろう。
接待の時に少しだけ水割りを飲んだが、接待相手の田中部長が呑まないので、吉塚も口を潤す程度にしか飲んでいない。すでにその時の酔いは冷めていて、新しく口に入れる日本酒は新鮮だった。
「おいしい」
汗を掻いてここまで辿り着き、生ビールの最初の一口とまでは行かないが、日本酒の一口もそれに匹敵するだけの趣きがあるように感じられて仕方がない。思わず声に出してみたくなるのも無理のないことだった。
あまりに小声だったからか、マスターには聞こえていなかったようで、仕込みに忙しそうだ。頼んだ焼き鳥も焼けてきて、ゆっくりと腰を据えて呑む準備は整った。
ゆっくり腰を据えるといっても、大抵は一時間とちょっとくらいである。よほど気が合 う人と話にでもならない限りは、二時間を越えることはない。
――まだ、こんな時間なんだ――
と思うのはいつものこと、かなり時間を費やしているつもりでも時計を見ると、それほど経っていないのである。
アルコールが入ってしまうと、時間が経つのが早く感じるのだろうか。元々呑みながらでもどこかで時間を気にしているはずである。ほとんど酔っていない最初の頃の記憶と、少し酔いを感じ始めてからの記憶とは違うところへ格納されてしまうようだ。
酔いを感じ始めるまで、結構時間が掛かる方かも知れない。あまり呑めない人の中には吉塚のようなタイプもいるのだろうが、少しでも酔いを感じ始めた時点で、黄色信号が点滅を始める。
本人は酔っているつもりがなくとも、
「顔が真っ赤だぞ」
作品名:短編集44(過去作品) 作家名:森本晃次