二重構造
「自分はその世界から消えてなくなることになるのだが、自分がいなくなったことで、元いた世界に変化があってはいけないので、まわりの人の記憶から、自分が存在していたという意識を削除する力が働くのだ」
と考えていた。
しかし、自分のことを知っている人の記憶から消すにしても、それだけの人が自分に関わっていたのか、それを探すだけでも大変だ。
また、それよりも、自分のことを知っている人の記憶には、関連性があるはずである。
それが、時系列を司るだけなのか、それとも、人との関わりに関してなのか、どちらにしても、一人の人の記憶を完全に抹消するには、その時に関わったすべての人に対しての記憶も操作する必要が生じる。
たった一人の人間の記憶に対しても、これだけの操作をするためには、その人の中の自分だけの記憶だけではなく、もっと大量でデリケートに関わっている部分にまで、辻褄が合うように消さなければいけない。それを考えると、自分一人をその世界から抹消するということがどれほど大変なことなのか、抹消することを考えれば、その人がその世界に留まっているということを正当化する方が、はるかに辻褄を合わせるには簡単ではないだろうか。
ただ、そうなってしまうと、次元を超えて飛び立った人が戻ってくる世界はないということになってしまう。別の人間として戻ってくるとすれば、今度はまたしても記憶の操作が入ってしまう。そういう意味で、
「タイムトラベルというのは、架空の発想で、タイムマシンが開発されたとしても、実際に自由に時代を行き来することなどできっこないんだ」
という発想の裏付けになってしまう。
一般論として、タイムトラベルは架空の発想であり、実際にはできっこないという説は有力であろう。
あすなも、その発想だった。
想像することは自由なので、いくらでも発想は思いついた。しかし、どんなに奇抜と思えるような発想であっても、最後にはどこかで引っかかってしまい、タイムトラベルを架空の発想だとしてしか考えられないという結論に導かれる。そう思わなければ、自分を納得させることができないのだ。
何かを発想して、それを覆すことなく結論付けるためには、少なくとも自分を納得させなければならない。
「自分一人すら納得させられないのに、偉い先生方を説得できるはずもない」
と思っていた。
ただ、自分を納得させることができれば、偉い先生を納得させるまでの道のりは、さほど遠くないとも思っている。
一つの山を越えれば、そこから見える光景も変わってくるはずなのだろうが、タイムトラベルの発想に関しては、一つの山を越えても、そこから見える光景は、元々見えるはずのものが見えていなかっただけで、変わりのないものだと思えてならなかった。
あすなは自分を納得させることさえできれば、まわりの人を納得させるまでには、さほど遠いものではないと思っていたが、そうでもなかった。
あすなの発想としては、時系列の中に表と裏が存在し、定期的に表が裏になり、裏が表になっているという思いを抱いていた。
そこには、もう一人の自分が存在し、まわりには、表と裏が存在していても、まったく分からない。まわりはおろか、本人にも分かっていないのだ。だが、本当に本人には分かっていないのだろうか?
表と裏が入れ替わる瞬間に、それまで考えていたことが、自然に乗り移り、元々裏だった自分が、最初から表にいたような感覚になっているだけなのかも知れない。
では、裏にいる時の自分はどうなのだろうか?
裏にいる自分は、じっと眠っているという思いにはなれない。裏は裏でいつも何かを考えているのではないかと思うと、
――裏の自分こそ、潜在意識といわれる自分なのかも知れない――
そう思うと、夢を見るということの説明も付くではないか。
夢を見ている時の自分は、裏の自分が意識している時間である。表の意識を引き継ぐことはなくとも、表の自分がずっと引き継いでいる気になっていることなどが、裏の自分に回されて、夢となって見てしまう。それは、
――忘れてはいけない――
ということに繋がるのだろう。
タイムトラベルで別世界に旅立った自分の意識は、その時に裏の自分に受け継がれている。
――裏の自分がいるから、タイムトラベルができるのではないだろうか?
と感じていた。
つまりは、タイムトラベルで別世界に飛び出した自分が戻ってくる場所があるとすれば、裏の自分でしかありえないのだ。
裏の自分に戻ってきた自分が、果たして表の自分に帰ることができるかということは、あすなにも分からない。あくまでも、
――別の世界や別の次元に飛び出すことができるのか?
という可能性を解いただけである。
あすなは中途半端になっているこの発想を、誰にも話していなかった。だが、本当はこの発想、最初に考えたのはあすなではなかったのだ。
最初に考えたのは、実は正樹だった。正樹は、あすなよりも少し先の発想をしていた。
以前、正樹があすなに話した内容が、この発想に結びつくものだった。直接的に結びつく発想ではなかったが、あすなの中で燻っていたのだが、ひょっとすると、その燻っていた場所というのが、
「裏のあすな」
だったのかも知れない。
「あすなは、もう一人の自分の存在を信じるかい?」
「ええ、信じているわよ」
その時、一瞬訝しそうな表情をした正樹だったが、次の瞬間から、嬉しそうな笑みを浮かべていた。その笑みには
「自分の思った通りだ」
という満足げな表情を醸し出していて、そんな顔をする時の正樹は、嫌いではなかったあすなだった。
「もう一人の自分を感じたことがあるかい?」
「感じたことはないんだけど、夢で見たような気がするの」
「夢の自分をどう思った?」
「夢って、自分は主人公でありながら、客観的に自分を見ているような気がするの。でも、自分は目だけの存在で、客観的には思えない。でも、もう一人の自分がいることで、それが正当化されるはずなのに、もう一人の自分が出てきた瞬間、なぜか怖い夢に変わってしまうの。しかも、そんな時に限って、夢というのを鮮明に覚えているものなのよ」
「じゃあ、もう一人の自分が夢に出てくる時というのは、自分で正当化しているのに、怖い夢だという認識でいるということなの?」
「そうなの。怖い夢ばかりを覚えているんだってずっと思ってきたけど、こうやって考えてみると、怖い夢だから覚えているわけではなく、自分の中で正当化できた夢だから覚えているということなのかも知れないわ」
「でも、正当化できた夢なのに、どうして怖いって感じるんだろうね?」
「そこまでは分からないけど、正当化というのを夢の中の自分が怖がっているということで、ひょっとすると、夢に出てきたもう一人の自分が本当の自分で、夢を見ている自分がもう一人の自分だと感じたんじゃないかって思うのよ」
「というと?」
「本当の自分が、自分の夢の中に入り込んでしまっている。客観的に夢を見ている自分と入れ替わってしまったのだとすれば、見ている夢から抜けられないんじゃないかって感じているのかも知れないわ」