二重構造
――まだ夢の中にいるようだ――
としか感じることができず、
――このまま眠り込んでしまわなくてよかった――
と感じたのだが、それは、
――ここで寝てしまうと、二度と目が覚めない世界に落ち込んでしまうかも知れない――
と感じたからだった。
正樹がここで眠ることを躊躇したのは、眠ってしまって夢を見ることを恐れたからだ。
その夢の内容というのが、自分にとって目覚めの悪いものであることが分かってしまったからだった。
今までにも怖い夢を見るかも知れないという思いを感じたこともあったが、実際に怖い夢を見たという記憶はなかった。
――思い過ごしだったんだ――
と後から思うのだが、この日は少し違っていた。
怖い夢を見る時というのは前兆があって、その前兆は眠る前に意識することはなかったのだが、この時は最初から前兆を意識していた。だから、必ず怖い夢を見るという予感があったのだ。
しかも今回の怖い夢を見るのではないかという予感の中には、具体的な夢の予感があった。
「夢の中に正樹さんが出てくるんだわ」
今一番会いたい人、夢であっても会いたいと思っている人の夢を見るという予感があるのに、それが怖い夢だと思ってしまうというのも皮肉なものだ。それがどうして怖い夢だと感じるのか? あすなは二つ考えていた。
一つは、夢の中に現れる正樹が、まるでゾンビのように変わり果てた姿になっているのを想像するからだった。最初は、いつもの笑顔の正樹であり、途中から豹変してしまうという思いは、
「ホラー映画の見すぎではないか?」
と言われるかも知れない。
もう一つは、最初から最後まで笑顔の正樹であり、正樹がまるで生まれ変わったかのような感覚に陥ることで、それが夢だと思えない気持ちになってしまい、夢の中で、
「これは夢なんだ」
と感じてしまう瞬間が訪れる。
そうなると、夢から覚めることを怖がってしまい、
「別れたくない」
と言って、彼にしがみつくに違いない。
その時に夢から戻ってくることができなくなるという発想が生まれ、それが眠りに就くことの本当の恐ろしさだということを意識させるのだった。
それからどれくらいの時間が経ったのだろう。表は明るくなっていた。
――もう、夜明けなのかしら?
と思ったが、カーテンから洩れてくる日差しは、どこかが違っていた。
枕元の時計を見たが、時刻はまだ三時過ぎだった。いくら何でも夜明けであるはずはなかった。
カーテンの向こうの光に目を奪われていたが、ふいに横を見ると、そこには正樹が座っていた。
「あすな」
あすなは、自分が夢を見ていることを自覚した。
「はい」
夢であっても、目の前にいる正樹は自分に語り掛けてきたのだ。返事をするのはいつものことである。
「君は、そのうちに真相を知ることになるかも知れないけど、今はそのことを探ろうなんてことはしない方がいいと思うんだ」
「どうしてなの?」
「僕は君のことが心配なんだ。だから余計な詮索をしてほしくない」
あすなはその言葉を聞いて、戸惑ってしまった。
死んでしまったはずの正樹。いくら会いたいとずっと思っていたとしても、そんなことができないことくらい、百も承知である。
――会えるとすれば、夢の中だけ――
分かり切っていることではないか。
夢の中というのは、本当であれば、自分の潜在意識が見せているものなのだから、自分に都合よく見るものだと思われがちだが、実際には、自分に都合のいい夢などあまりないことだ。
都合のいい夢ばかりだということであれば、怖い夢など存在しないだろうし、目が覚めてから夢の内容を忘れてしまうというのも、どこか違っているような気がする。
確かに夢の世界と現実の世界では次元の違いに匹敵するほどの違いがあるのかも知れない。
例えば、以前見た映画で、四次元世界を創造したSFだったのだが、四次元の世界というのは、時間という次元が違うだけで、実際にはすぐそばにいるものだという。本来であれば時間が違うので接点があるはずのないのに、何かの拍子に違う次元の人の声が聞こえることがあるというものだった。
姿が見えないのに、声だけがするという現象に、主人公はすぐに、「次元の違い」を感じ、どうしてそんなことが起こったのか映画では暈かしていた。
「次元の歪」
という表現でしか語られていなかったが、ストーリーは、最初から最後までお互いに見えない相手との交流から、相手の世界の矛盾を解決するというものだった。
こちらの次元の人には決して見えないものが、異次元世界の人には見える。逆に言えば、こちらの世界の人に見えるものが、あちらの世界の人には見えないのだ。
もっとも、それは異次元を意識しなければ見えてくるものではないので、いきなりたくさんのものが見えてくることになるという、常人であれば、頭が混乱してしまうことだった。よほど「次元の歪」を理解しているか、素直な気持ちで受け入れることができるかでなければ、耐えられないことだろう。そういう意味では、異次元を意識できる人というのは、本当に限られた人しかいないのだ。
しかも、理解できた人が他の人に他言することはありえない。
他言してしまうと恐ろしいことが起こるという感覚は、子供の頃に諭された「おとぎ話」で、嫌というほど分かっている。おとぎ話を信じられない人には、異次元の発想など理解できないことでもあるのだ。
異次元を理解できる人、つまりは異次元を感じることのできる人は、おとぎ話など必要はなかった。おとぎ話を信じられない人には異次元を感じることができないのだから、考えてみれば、おとぎ話の教訓など、まったく無意味だと言ってもいい。
それでも、昔から受け継がれてきたおとぎ話が本当に正しく伝わっていたのかというのも疑問である。
伝言ゲームというのを思い出す。
正しく伝えているつもりでも、そこに何人もの人が絡むと、歪んで伝わってしまう。そこには人それぞれの感じ方があり、理解度も異なってくる。
一つが違えば、次には二つになる。次第にアリの巣のように穴ぼこがたくさんできてくるのだが、そのうちに地盤が崩れ、大きな一つの穴が出来上がることだろう。
「それこそ、次元の歪」
と解釈した人もいたようだが、その人も異次元の世界を覗くことができ、覗いてしまうと、それ以降、一切の異次元の話をしなくなった。事情を知らない人は、
「あれだけ異次元の話題ばかりしていた人が急にしなくなったんだ?」
と疑念を抱くことだろう。
そのことを本人は誰にも知られてはいけないと思っている。一度垣間見た異次元の世界というのは、この世界とはまったく違ったもので、
「それを口にすると、よくないことが起こる」
というよりも、
「異次元世界のことは、犯してはならない神聖なものなのだ」
という感覚に陥らせるに違いない。
あすなは、自分が異次元世界に興味を抱いた時のことを思い出していた。
――きっとそのうちに、私は異次元世界のことを垣間見ることができるんだ――
と感じていた。
その思いに信憑性はなかったが、予感だけは強かった。
なぜなら、普段であれば、