二重構造
「浦島太郎が上がった陸の世界というのは、七百年後の未来だったというお話なんですよね。そして、どうやら、この浦島太郎というお話は、恋愛物語だったという説があるんですが、浦島太郎が貰った玉手箱の中には太郎の魂が入っていて、それを知らない太郎はそれを開けると、老いない身体になってしまい、そのまま鶴になったというお話です。乙姫様がどうして浦島太郎に玉手箱を渡したのかというと、乙姫様は太郎のことを愛していたようで、もう一度会いたいという思いを込めていたそうなんですよね。だから、乙姫様はカメになって太郎に会いにくる。そして、二人はずっと愛し合ったというお話なんだそうです」
「じゃあ、ハッピーエンドなんですね?」
「そうなんでしょうね」
すると、またあすなは考え込んでしまった。
「待って、じゃあ、せっかくのハッピーエンドなのに、どうして、明治時代の教育改革の時に、この話をハッピーエンドにしなかったのかしら? こんな疑問を残すようなことをして……」
「明治時代の考えとしては、開けてはいけないという玉手箱を開けたということを問題にしたんだそうです。つまりは、これは『いいことをしたから報われる』という教訓ではなく、『約束を守れなかったから、おじいさんになった』ということを教訓にしたお話だったようです」
「だったら、最初にカメを助けた件をつける必要があるのかしら?」
「だって、その話を持ち出さなければ、話が先に進まないでしょう? あくまでもカメを助けたというのは、このお話のプロローグでしかないのよ」
「とっても、中途半端ですわ」
「そうなんですよ。このお話の根幹はそこにあると僕は思っているんですよ。このお話には矛盾している部分が結構ある。続編を考えるとピッタリと噛み合う、まるで勘合符のような話なんですよね」
「ええ、その通りだと思います。でも、具体的には他にどんなところがあるんですか? お話の内容は今聞いたことで分かったんですが、続編は今聞いたばかりなので、自分を納得させるまでには、どうしても行き着きません」
「そうですね、例えば、浦島太郎が陸に上がった時のことなんですが、あすなさんは、最初からあれが『未来の世界』だと分かりました?」
「今から思えば、そう思い込んでいましたね。お話を聞いた時から未来の世界だったと教えられたとしか思っていませんでしたから」
「でも、これは僕の記憶では、浦島太郎が辿り着いた世界は、家族はもちろん存在せず、自分を知っている人、自分が知っている人が一人もいないところで、見たことのない世界になっていたというお話だったと思います。でも玉手箱を開いておじいさんになったということで、そこが未来だったと思ったのかも知れません」
「確かに続編では、というよりも作り変えられる前のお話ということかも知れませんが、そちらでは、七百年後ということらしいんですよ。僕たちは、未来だということは感じていても、具体的に七百年後などという具体的な数字はまったく知らないはずですよね」
「ええ」
「思い込みなのか、それとも、未来ということだけは教わったのか、誰もたぶんハッキリとは分からないと思うんですよ。記憶が曖昧なんですね。これは故意に記憶を曖昧にさせる何かがこのお話の中に含まれているのか、何かがあると思っています」
「なるほど、それがこのお話に続編がついていなくても、あまり問題にならなかったところなのかも知れませんね」
「はい、とにかく、今語られている浦島太郎の話は中途半端なんですよ。皆も少しは考えれば分かることなのかも知れないけど、曖昧さが考えようとさせないのかも知れませんね」
「でも、香月さんはどうしてこのお話を私にしたんですか?」
「あすなさんの話を聞いていて、浦島太郎の話をしてみたくなったんです。浦島太郎のお話ができる人がまわりにいなかったこともあって、ずっと抱え込んでいたんですよ。自分のまわりにも研究者の人はいます。そしてその人も独自の考え方を持っている人なんですが、浦島太郎のお話ができるような人ではないんです。お話をすればそれなりに会話は弾むと思うのですが、自分の疑問に思っていることが解消させることはなく、逆に深みに嵌ってしまうような気がしていたんですよ」
「じゃあ、私とは正反対の感じの人なんですか?」
あすなにそう言われて、香月は黙り込んでしまった。
ようやく口を開くまでにどれほどの時間があったのか、時間の感覚がマヒしてしまっている二人には想像がつかなかった。
「正反対というわけではないですね。むしろ似通っているところは結構あると思います。でも、結局は、交わることのない平行線なんじゃないかって思うんですよ」
あすなは、香月が虚空を見つめていることに気が付いた。
――この人は、その女性が好きなのかも知れないわ――
あすながその時、自分がそう感じたことに、疑問を持っていなかった。
香月は、
「自分のまわりにも研究者はいる」
と言っただけで、その人が女性であるとは一言も言っていない。ただ、黙り込んでしまったあと、虚空を眺めている表情を見ただけだった。それなのに、あすなはそれだけで、相手が女性であると考えた。これではまるで、浦島太郎が上がった陸を、最初から未来だと思い込んでいた感覚と同じではないか。
これこそが人間の性なのかも知れない。
――先を読む――
ということが相手に対して、気を遣っているかのような錯覚を持つことで、人は、
――思い込み――
という感情に走ってしまうのだろう。
しかし、この思い込みというのは曖昧なもので、もしそれが真実であったとしても、思い込みである間は、曖昧なものに変わりはない。
少ししてから、香月が口を開いた。
「実は、その人もタイムパラドックスの研究をしていて、あすなさんと同じような発想をしていたんですよ。途中までは同じだったんだけど、途中から少し違ってきました。あすなさんの話を聞いていると、彼女の理論の続きを、あすなさんの説が補ってるような気がするんですよ」
「でも、私の説とは途中から変わってしまっているんでしょう?」
「ええ、でも、最後にあすなさんの考えを『続編』にしてしまうと、最後には辻褄が合ってしまうような気がするんです。彼女の説だけを聞いている時は、その話は非の打ちどころのないものだって思っていたんですが、さっきのあすなさんの話を聞いて、実は彼女の説にはどこか矛盾があるような気がしてきたんですよ。それをあすなさんが補ってくれたという感覚でしょうか?」
「さっきの私の説は、本当の私の説ではありません。本当は最初からまったく正反対の発想だったんです。実は、元々の説を考えたのは、正樹さんだったんだけど、彼が死んでしまってから、私がその説を受け継いだんですね。でも、彼が生きている間は、私は彼の説に反対だった。でも、彼が死んだことで、私の中に彼の魂が入り込んだのか、彼の考えが、最初から自分の考えだったような気がして仕方がないんです」
あすなは、さっき虚空を眺めていた香月のような表情をしていた。それを見て、
――やはりこの人は正樹さんを心から愛していたんだな――
と感じた。