二重構造
彼は、研究所は違ったが、同じ研究をする人として、上官から紹介されたことがあった。研究所が違うので、本当は交流を持ってはいけないのかも知れないが、ちょうどその頃、二人が所属するそれぞれの研究所で、共同研究のプロジェクトが持ち上がっていたこともあって、比較的、交流は自由だった。
その時に、二人はお互いの考えを話し合ったことがあった。
もちろん、研究の核心に迫るようなものではなく、世間一般的な話だった。
しかし、二人の考え方は結構違っていた。それだけに、話始めると、なかなか終わることはない。話が佳境に入ってくると、声を荒げることも少なくはなく、まわりからは一触即発に見えたかも知れない。
それでも、当の本人たちは、結構楽しんでいた。同じ考えの人と話している時には感じられない新鮮さが、二人の間にはあったのだ。
「高梨さんのお話は勉強になります」
「いえいえ、優香さんのお話こそ楽しかったですよ。お互いにいい研究を続けていきましょうね」
と、いつも最後は笑顔だった。
しかし、そんな楽しい時期はあまり長くは続かなかった。
それまで続けられていた共同研究が途中でポシャってしまったのだ。理由はどちらかが妥協しなければ進まない案件があり、どちらも譲歩しなかったことが原因だった。
「元々、無理だったんだよ」
と、研究所のプライドはぶつかった時のことをまったく考えていなかった上層部の愚かさが、研究所内でも言われるようになった。
「営利にばかり囚われると、本来見えているものが見えなくなるんだろうね」
結局、また研究所は外界とは一線を画した場所になってしまった。セキュリティも万全になり、息苦しい場所に変わってしまった。
そうなると、正樹と優香の関係もそこで終わってしまった。お互いに未練はあっただろうが、しょうがないことだ。お互いに恋愛感情がなかったのが、唯一の救いだと思っていたが、本当にそうなのだろうか?
優香の方は、アッサリとその現実を受け止めていたが、正樹の方は少々未練があったようだ。
未練があっても、どうしようもないので、表面上は変わりなく研究を続けていたが、心の中にできてしまった暗い影は、どうしても取り除くことができなかった。
そんな時に現れたのがあすなだった。
今から六年前になるのだから、あすなが大学を卒業して大学院に進んだ時、研究所に研修に来た時、初めて二人は知り合った。
正樹は、あすなのあどけなさに新鮮さを感じただけではなく、あすなの中に、優香を見た気がした。
どこに感じたというわけではなく、話をしていて、食い下がってくるところは、まさに優香だった。
――俺は、この娘に恋をしたのかな?
頭の中から優香がまだいる間のことだった。そのために、ハッキリと恋をしたという意識はなかったが、しばらくすると、頭の中にいた優香が消えたその時、完全にあすなに恋をしたと感じたのだ。
しかも、それは遡及的なものだった。
――あすなを最初に見た時から、ずっと好きだったという感覚が残ってしまった――
最初は、優香がいたはずなのに、その優香がいなくなったとたん、優香の位置に最初からあすながいた気持ちになっていたのだ。
――優香に悪い――
という罪悪感はなかった。
本当に最初からあすなが好きだったという感覚しかないのだ。
しかし、正樹は別の意識も持っていた。
――あすなが現れたことから、自分が優香に恋愛感情を持っていたことに初めて気づいたのではないだろうか?
という思いである。
あすなは、自分が正樹に恋愛感情を抱いているとは、最後まで感じたわけではなかった。そのことに気づいたのは、正樹が死んでからで、彼の死は、自殺だったのだ。
遺書があったわけではない。しかし、現状の状況から、自殺であることは明らかだった。しかも、自殺の原因に関しては、公にされなかったが、教授たちが原因についての心当たりがあるということで、自殺と断定された。
ただ、彼が自殺であるということは、一部の人間しか知らない。大学でも知っている人は少ないだろう。あすなも彼の死は、心臓麻痺だと警察から教えられ、それを忠実に信じていた。
あすなは、彼の死に疑問を持っていた。
さらに後から現れた香月から、彼の死について疑問があると言われた時、胡散臭いと思いながらも、彼を遠ざけることをしなかったのは、正樹の死についての謎を解いてくれるなら、香月しかいないだろうという思いだった。
最初は、香月が怖かった。あすなには、香月のようなタイプの男性に免疫があるわけではない。一度恐怖を感じると、なかなかそれを拭うことはできなかった。
しかし、なぜか、彼に対しては自分から遠ざかるという気持ちはなかった。どこかに懐かしさを感じたからで、以前、自分の知っている人に似ているとすれば、それが誰だったのかということを考えさせられた。そのことを考えているうちに、次第にあすなは、香月の術中に嵌っていってしまった。
ただ、香月の方とすれば、あすなを何かに利用しようという意識はなかった。最初に話があったように、純粋に高梨正樹の死についての疑問を解決したかったのだ。
投書の話もウソではなかった。香月はなぜそれほどまでに正樹の死についてこだわっているのだろう? あすなには分からなかった。
そんなことを考えているうちに、あすなは香月に監禁される羽目になってしまった。せっかく心を許せるかも知れないと思っていた相手に監禁されて、
――これから何をされるのだろう?
と思うと、恐怖しか感じない。
その恐怖は、最初にあすなの前に現れた時とは微妙に違っていた。それは、香月の態度の違いがそのほとんどで、最初に現れた時は憎らしいほどの余裕を見せていたのに対して、監禁された時に感じた香月は、余裕などまったくなく、ただひたすらあすなに詫びを入れていたのだった。
――この人は、私を監禁しながら、ずっと謝っている。本当はこんなことをしたくはないと思っているのに、それでもしてしまっているということは、それだけ切羽詰まっているということなのよね――
と感じた。
しかし、この思いはさらなる恐怖を呼んだ。
――本当はしたくないことをしなければいけない精神状態というのは、頭が回っていないはずで、気持ちにも余裕などあるわけではない。そんな状態で、冷静な判断が果たしてできるだろうか? 理性とは裏腹な行動を取ってしまうのではないか――
と思うと、それはもはや恐怖以外の何物でもないことを表していた。
しかも自分は縛られているので、自由が利かない身である。香月がそばにいればいいのだが、
――もし自分だけをそのままにしてどこかに行ってしまったら――
と思うと、さらに恐怖を煽られる。
いつの間にか自分が眠らされていて、ここで監禁されている。いつまでここでこうしていなければいけないのか分からないのは怖かったが、香月の様子をしばらく見ていると、――この人が自分に何かするということはないような気がする――
という思いに駆られた。
もちろん、信憑性も根拠もないものだが、あすなの予知能力がそう言っている。