二重構造
病に伏してはいたが、薬が効いている間は、ある程度落ち着いている。精神安定剤も入っているのか、最近の切羽詰まった状態から、だいぶ収まってきたかのように見える。
しかし、それは薬が効いている間だけだった。薬がキレてくると、精神は不安定になり、不安定な精神状態はそのまま肉体に直結して、とたんに苦しみ始めるのだ。
息は荒くなり、意識不明寸前まで苦しんでいて、そんな状態を見ていると、さすがに痛々しさで、
――自分がこんな状態になったら――
と想像すると、いたたまれなくなる。
優香はそれでも、気を失いかけたその虫の息の状態で、誰かの名前を呼んでいるようだった。
「どうしたの? 何が言いたいの?」
優香の口はパクパクと動いている。
綾は、その言葉を必死に探ろうとした。明らかに誰かの名前を呼んでいるように思えてならなかった。
それは綾が人の心を読むことができるからで、その能力は、必死にならなくてもできるものだった。
しかし、今綾は必至に優香の口元を読み取ろうとしている。そして、優香の口元に自分の耳を持って行って、何とかその声を聞きだした。
「えっ?」
綾はその時に聞いたその言葉があまりにも意外だったことで、ショックを受けた。
いや、厳密にはショックを受ける前の驚愕で、金縛りに遭ったと言ってもいい。指先に痺れを感じ、頭の中で遠い鐘の音が聞こえるようだった。目の前に小高い丘から見える海が見えていて、その場所は墓前であった。匂ってくるはずのない線香の香りが漂っている。
――どうしたことなのかしら?
その光景は以前にも見たことがあった。それがいつだったのか覚えていない。
――確かあれは……
ごく最近のはずなのに、思い出せない。
墓前に手を合わせている一人の女性を見かけた。その人は必至になって手を合わせ、何かを呟いていた。
その後ろに一人の男性が立っている。必死でお参りしているその女性をじっと見守っていた。
そこで綾の意識は戻ってきたが、墓前だけが瞼の裏に残っていて、人は消えていた。
――今のは何なのかしら?
綾は幻を見たとしか思えなかった。あまりにもリアルな幻である。
優香が綾の耳元で呟いたその言葉、
「お兄さん」
間違いなく、そう言っていた……。
綾は、自分の計画が半分瓦解したのではないかと思った。
なぜ優香の言葉にそんなに過敏に反応したのか、自分でも分からない。しかし、
「お兄さん」
この言葉、優香がいつか口にすることを予期していた。そして、予期していた言葉を発した時、綾は自分の中で大きな変化を迎えることも分かっていた気がした。それがどんなことなのか、予測は不可能だったが、今は分かった気がした。
――私は、今後一切、人の心を読むことができなくなってしまったんだわ――
そう感じた時、悔しさが支配していた。
列車は走り出したのに、自分の力が一つなくなってしまったことで、これからどうすればいいのか、途方に暮れてしまうことだろう。
しかし、その反面、どこかホッとした気もしていた。なぜなら列車を走らせることが本当の自分の意志から生まれたものなのか、ずっと疑問だったからだ。
相手が優香でなければ、こんなにも苦しまずに済んだのに……。
綾は、優香に尊敬の念を抱きながら、自分をいつかは愛してくれると信じて疑わなかった。そんな優香を不本意ではありながら利用しなければいけなかった自分に、嫌悪を感じている。
「お兄さん……」
綾は、自分の思いをその言葉に籠めて、必死で嗚咽と戦っていたのだ……。
香月の正体
真っ暗な部屋の中で、あすなは目を覚ました。
「ここはどこなのかしら?」
自分が縛られているのを感じた。
しかし、それほどきつく縛られているわけではなく、ある程度軽くなら動かすことができる。それでも、縄を解くことは不可能で、なまじ緩く結ばれていることに、ぬか喜びさせられた自分が情けなかった。
「目が覚めたかい?」
ギーっという重たい金属の扉が開く音がして、四角い光が飛び込んできた。
そこにはシルエットで人の姿が映し出されていて、その声の主が香月であることはすぐに分かった。
「香月さん、これはどういうことなの?」
「あすなさんには悪いと思ったんだけど、少しの間、僕とここで一緒にいてもらいたいんだ。悪いようにはしない。これも君を守るための一つの行動だと思ってほしい」
あすなは、その言葉に疑念を覚えた。
――一つの行動? ということは、私を守るためには、他にも行動を取らないといけないということ?
何か、大きな陰謀に巻き込まれてしまっていることに、あすなは気づいた。
「どういうことなの? 私が何をしたの?」
そこまで分かっているので、あすなは、なるべく自分が何も知らないふりをしなければいけなかった。
だから、その言葉には、
――こんな状況に陥って、パニックになっています――
という意識を相手に植え付けなければいけない。
相手はあくまで落ち着いている。あすなの考えていることなんか、お見通しなのかも知れないが、策を弄しないよりも弄した方がいいように思った。とりあえず様子を見てみるしかないだろう。
その時のあすなには、恐怖というものは不思議となかった。まるで自分には誰かがついていてくれて、最後にはその人が助けてくれるという妄想が頭の中にあった。それが誰なのか分からないが、あすなには、予知能力のようなものがあったのだ。
香月は話始める。
「あすなさん、実はあなたが学説を発表するというプレス発表をさせてもらった」
あすなはビックリして、
「えっ、どういうことなの?」
「君が学説を完成させていることは分かっている。それを発表しようという準備を今していることもね。でも、今その発表をされると困るんだ。それは僕が困るだけではなく、あすなさんの身にも危険が及ぶことになる。それで不本意だけど君をここに監禁し、プレス発表をしたんだが、君が行方不明になったので、発表は中止ということにしたいんだ。一度中止にしてしまうと、君も知っていると思うけど、しばらくの間、発表する機会を持つことができないだろう? それが狙いなんだ」
「まったく意味が分からない。分かるように説明して」
「申し訳ないが、それはできない。いずれはすべてを話すことができると思うんだが、今はできないんだ。こうやって君を監禁し、君を守っていることで、本当なら僕にも危険が背中合わせになってしまっている。とても辛い選択だったんだけど、僕にはこの方法しかなかったんだ。僕には、特殊能力が備わっているわけではないからね」
あすなは、香月のことを本当に悪い人だとは、この期に及んでもどうしても思うことができなかった。香月の顔を見ると、最初だけは、
「何て、図々しい男なんだ」
と感じさせるほどの上から目線に見えていたが、今では、辛い顔しか自分の前で見せることはなかった。
香月はあすなの前で自分の辛さを隠さないのは、それだけ自分があすなに対し、哀れみを感じていて、
――俺のような男でいいんだろうか?
という思いが見え隠れしているからだ。