二重構造
――言葉にしないのは、秘密にしたいからだ――
というのが、綾の考え方だ。
したがって、優香が男性関係のことを口にしないのは、
――自分のような傷を持っているからに違いない――
と感じているからに違いなかった。
優香が研究していた内容は、本当はあすなが考えていた発想とは対になるものだった。
そのことは綾から、
「S研究所が発表した内容」
として聞かされた学説を思えば、気づくことだった。
しかし、その時の優香は、少なくともパニックに陥っていた。しかも、このパニックは、少々のことでは収まらない。今までの優香の能力を著しく狂わせるだけの十分な力を有していたのだ。
綾の中にはその思いがあった。
綾は、優香の考えていることがある程度分かっていたが、さすがに彼女の発想までは分からなかった。綾が分かるのは、優香が誰かを相手に何を考えていることであって、一人で発想や妄想したことを分かるわけではなかったのだ。
そのことに気づいたのは最近のことで、気づいた時、少しショックを受けた綾だったが、そのことが今回の自分の中にある計画に火をつけたと言っても過言ではなかった。
――優香さんには悪いけど……
綾は優香に手を合わせたが、走り出した計画を止めることはできなかった。
「走り出した列車は、止めることはできないのよ」
綾は、自分に言い聞かせるのだった。
まずは、優香の学説がどんなものなのか、探ることが先決だった。なぜなら、あすなが自分の研究を発表したということで、優香は、自分の発想に磨きをかけて、さらにアンチな学説を考えるに違いない。
その前に彼女の本意を知る必要があった。彼女の様子を見逃さないことと、彼女の研究資料を探ることで、分かることだと、ある意味、簡単に考えていた。
もし、計画が失敗しても、本当はS研究所が発表するはずだった内容を、そのまま発表させればいいだけのことだった。綾の相手にプレス発表をさせるという作戦は、失敗した時のことも考えてのことだっただけに、実に計画性のあるものであったに違いない。
その頃優香は、綾の計画を知ってか知らずか、ある男性と会っていた。
「すべてはあなたの計画通りに進んでいるということ?」
「まあ、そういうことかも知れないね」
相手の男はタバコを燻らせていて、どこから見ても、胡散臭く見えていた。
二人が会っていたのは、普通の喫茶店であり、別に密会していたわけではない。会話の様子からは、お互いに相手の様子を伺いながらというのが見て取れるが、
「優香さんは、相手の心が読めるので、ウソはつけないですよね」
と言って笑みを浮かべたが、この男、優香の能力に気づいているようだった。
「そうかしら? これでも最近は、この能力に少し限界を感じているのも事実なんですよ」
この言葉にウソはなかった。
確かに優香は、自分の能力に少し疑問を感じていた。それは綾の存在が大きいのだ。
綾も相手の気持ちが分かるので、お互いに探り合っていると、「見かけの部分」しか相手の気持ちが分かっていないような錯覚に陥る。優香はそんな自分にホッとしていたのも事実だった。
――人の心が読めたって、ろくなことはないわ――
相手が自分に対して感じていることが、嫌でも感じることになる。それは本当に知りたくないと思えることばかりだったりする。
「立場上、あんたと仲良くしているが、本当なら顔を見るのも嫌なくらいなんだ」
そんな思いを見させられると、溜まったものではない。
それでも最近は慣れてきた。
――こんなことに慣れてきたくなんかないわ――
と感じていたが、それでもそばに自分と同じ能力を持った綾がいてくれるのは心強かった。
――いるといないとでは大きな違い――
そう思うことで綾に対して贔屓目に見る自分を見失っていたのも事実だった。
そのことは綾も分かっていて、
――これを利用しない手はない――
と思わせた。
優香と一緒にいる時の綾は、すべての神経を集中させていた。離れるとぐったりしてしまうほど神経を使っているのだが、一緒にいる時、神経を使っていることが生きがいのように思えているのも事実だった。
――私の本当の気持ちって、どこにあるのかしら?
男に対して見る目のなかった、まるで子供同然だった自分がまるでウソのようである。これも覚醒させてくれた、プロポーズしてきた男性と、優香には感謝すべきなのだろうが、自分の目的のためには、そうも言ってられない。
綾は自分の目的に対して今一度考え直してみた。
――本当にこれでいいのかしら?
何度となく自分に問うてみたことだったが、答えは得られなかった。答えを得るとすれば、この計画の最後に何を感じるかということしかない。綾は、今の自分は本当の自分ではないと思いながらも、
――実に綾らしい――
と、客観的に見ることもできていた。
あすなが発表したという学説は、本当は発表したわけではない。プレス発表をしただけなので、あすなが実際に学会に出向いて、その内容を公表しなければ、誰もその内容を知ることはないのだ。
それなのに、綾があすなの発表することになっている学説を知っているというのはおかしなことだ。しかも、その内容が、優香の学説に酷似しているという。
優香は自分の学説をある程度まで綾に話をした。その内容を聞いただけでは、もしあすなの研究発表がどれほど酷似しているのか分からないが、その後、優香が遅れて発表したとしても、それが発表できないほど酷似しているものだとは限らない。
限らないだけに、優香には待っているだけ溜まったものではなかった。普段の気持ちに余裕のある優香であれば、これくらいの期間、待っているのは別に問題ではないが、最初から余裕のない状態で待っているというのは、真綿で首を絞められる思いがして、吐き気からか、息苦しさが襲ってくるようだった。
本当に体調を崩してしまった。
研究中に貧血を起こして倒れた優香は、そのまま救急車で運ばれ、緊急入院することになった。付き添いは綾がいるので、他の研究員は誰も優香に構うことはない。そんな優香を綾は気の毒に思っていた。
――私が招いた種なのに……
綾は自己嫌悪に押しつぶされそうになっていた。
確かに、走り出した列車を止めることはできない。少なくとも、自分だけで止めることはできない。しかし、このことを知っている人は自分以外にはいないではないか。どうしたって止めることのできない列車を走らせてしまった自分に対し、自己嫌悪に陥るのは当然のことだった。
綾は、優香を見ていて、
――ズルいわ――
と感じていた。
いくら自分が招いた種だとは言え、巻き込まれた方は、さっさと気分が悪くなって病に伏している。先に病に伏されてしまうと、自分は死んでも寝込むわけにはいかなくなった。確かにやり遂げなければならない計画のはずなのに、目の前で病に伏せって苦しんでいる人を見ると、自分とかぶってしまって、あれだけ意を決したはずの決意だったものが、どこか揺らぎ始めているのを感じいていたのだ。
「優香さん、大丈夫?」