二重構造
「どうして君が言葉にできなかったのかというと、君は心の中で、『こんなことを口にすると笑われるんじゃないかな?』ということを考えていたんじゃないかな? もっとも、それは誰もが感じていることであり、君だけのことではない。だから、皆思っていることを自分は口にできないと思っているのさ。思っていることを口にできるというのは、本当は気持ちのいいことなんだよ」
と言われても、最初はピンとこなかった。
――いつから、思ったことを口にできないと思うようになったのかしら?
と考えていると、次第に分かってきた。
「そうだわ。小さな頃は好き放題に言っていたはずなのに、大きくなるにつれて、言葉を選ぶようになった。それが成長だって思うようになったんだけど違うかしら?」
「その通りさ。確かに言いたい放題に言っているだけでは小さな子供のままなんだろうけど、自分で言葉を選んでいるうちに、何が正しいのかだけを考えて口にするようになってしまったでしょう? それがそもそも思っていることを口にできなくさせているんじゃないかな?」
まさしくその通りだった。
彼は続けた。
「絵を描いている時は、ウソはないんだよ。それがいくら目の前にあることを忠実にあがいていないとしてもね」
「どういうことですか?」
「余分だと思うことを省略することは得てしてあるものなんだよ。それをウソだとは僕は思っている。逆にそこにないものを描くこともある。それこそ、言いたいことを言える自分に照らし合わせて見ることができるんじゃないかな?」
中学時代の彼女には、少し難しいことだった。
彼女が絵画を志すようになったのは、この時、絵を描いているこの人に会わなければ、きっとなかっただろう。そう思うと、
――出会いに運命というものがあるのって、本当なんだわ――
と感じないわけにはいかなかったのだ。
その時の彼とは会うことがなかったが、彼は絵で将来生計を立てていくつもりはないと言っていた。
「どうしてなんですか?」
と聞くと、
「僕はあくまでも趣味の世界で描いているだけなんだ。言いたいことを言えなくなるくらいなら、趣味の世界で描いているだけで十分だからね」
欲がないと言えばそれまでだが、正直もったいない気がした。
なりたくて努力している人もいれば、趣味の世界で満足している人もいる。人それぞれなのだろうが、
――プロになりたいと思っている人に才能を与えてあげれば、世の中うまくいくのに――
と、勝手に思い込んでしまっていたが、考えてみれば、誰に才能があるのかを、一体誰が決めるのかということを考えると、プロとアマチュアの違いがどこにあるのか素朴に疑問に感じてしまった。
そう思うと、気が楽になったのか、
――私にもできるかも?
それまでの自分が食わず嫌いなだけだったことに気づいたのだ。
中学の美術の先生が面白い先生だったこともあって、美術部に入部することもなく、一人で描くようになった。先生には時々絵を見せてアドバイスをもらっていた。先生も美術部への入部を無理に進めることはなかったので、気楽に聞くことができた。
美術の先生だからと言って、先生は別に美術部の顧問というわけではない。顧問というのは、誰でもいいのだ。もちろん、美術の先生だからということで、最初に顧問の打診があったのも事実だったようだが、先生は丁重に断ったという。理由に関しては聞いていないが、人から縛られるのがあまり好きでなさそうな先生なので、自由に動けるように顧問を辞退したのだ。
学校側は最初、先生がコンクールに応募する作品を作っていたので、それで遠慮したのかも知れない。顧問打診を強く推すことができなかったのも、そのあたりが原因だったのだろう。
先生に相談すれば、先生も河原で会った大学生と同じような話をしていた。
「目の前にあるものを充実に描くだけが絵画じゃないんだ。時には思い切って省略してみたり、そこにはないものを付け加えてみるのも、絵画なんだよ。絵画は芸術なんだ。マネではない。創造することも大切だって僕は思うんだよ」
そう先生に言われると、目からうろこが落ちたような気がした。
――なるほど、新しいものを作るという考え方なのね。私が絵画をやってみようと思ったきっかけが何だったのか自分では分からなかったけど、こうやって先生から言われると、だんだん分かってきたような気がする――
分かってくると、方向性も決まってくる。
新進気鋭の画家の中には、人には分からないものを描く人もいれば、幻想的なこの世のものとは思えないものを描く人もいる。ピカソや岡本太郎のように、常人では想像もつかないような発想、それこそ、
「芸術は爆発だ」
と言えるのではないだろうか。
そんな人のようになりたいとまでは思わないが、自分の中の独創性を醸し出せる絵を分かってもらえる人がいれば、それだけで嬉しかった。
「僕は数万人にウケる作品を作るより、数人の人でいいから、『まさしく自分の感性にピッタリの作品だ』と言ってくれるような作品を描きたいんだ」
と先生は話していたが、
――本当にその通りだ――
と思うのだった。
まったりといつものように夕方になるまで、絵画を楽しむつもりだった。正樹の墓前に来て、すぐに帰るというのは気が引けた。少しでも正樹と一緒にいたいという思いと、ここにいると、誰かに出会えそうな気がしたからだ。それが彼女にとっていいことなのか悪いことなのか、よく分からなかった。
ここで絵を描き始めて、何度目になるだろうか。そろそろ半分が出来上がろうとしていた。時々筆を休めてスケッチブックに目を落とすと、出来上がりを想像することで、
「よし、もう少し頑張っていこう」
と、やる気が出てくるのだった。
その日も何度目かの休憩の途中のこと、後ろに人の気配を感じたが、墓参りの人なのだろうと思い、それほど気にしていなかったが、ふいに後ろから名前を呼ばれて、思わず振り返った。
「西村さん? 西村あすなさんですよね?」
と言われて、反射的に振り向いたが、そこには一人の見知らぬ男性が立っていた。
あすなは、何と答えていいのか一瞬考えたが、
「ええ、そうですけども」
さぞや訝しい表情をその男性に向けていたに違いない。
その男性は三十代前半くらいであろうか。あすなの顔を見て微笑んでいた。その微笑みは、喜びからの笑みというよりもホッとしているような安心感による笑みに見えたのは気のせいであろうか。
「ごめんなさい。いきなり声を掛けられて、さぞやビックリしていることでしょうね」
「ええ、まあ」
きょとんとしているあすなの顔を覗き込むように微笑むと、
「私はこういう者です」
と言って名刺を一枚渡された。
『サイエンスジャーナル編集部:香月洋三』
名刺にはそう書かれていた。
サイエンスということは、科学関係の雑誌社の編集者ということだろう。あすなは身体を固くした。
「雑誌社の人が私に何の用なんですか?」
「あすなさんに、高梨正樹さんのことについていろいろ教えていただきたいと思いましてね」
「私にですか?」
「ええ、あすなさんは高梨さんとお付き合いをされていたんですよね? 死の直前まで……」
「……」