二重構造
あすなの思い
「今年の夏も暑かったわね」
そう言いながら、墓前に座り、手を合わせている一人の女性。
海を一望できる丘の上に位置している墓地は、夏の間に無法地帯のように無造作に生え揃った雑草に埋もれそうになっていた。
管理人はいるにはいるが、個人で土地を貸し、そこに墓を建てているだけなので、墓の手入れに関しては、個人任せになっている。
定期的に訪れている人の墓は、墓前はおろか、まわりも綺麗に整備されていて、そこだけ別世界のように見えている。手を合わせている女性のまわりの雑草は、それほど伸びていないところを見ると、ここに眠っている人のために、定期的に掃除している人がいるということだろう。
彼女もその一人だった。
花を手向けたその手で、お参りを済ませると、まわりの草を刈り始めた。定期的に綺麗にしているので、そんなに時間も掛からない。軽く汗を掻いた程度ですぐに綺麗になっていた。
「正樹さん、あなたがいなくなってからのこの世界は、まったく変わりないわ。時間はちゃんと正確に時を刻み、流れていく。私はそのことが不思議で仕方がないのよ」
こんな時、涙を流すのが本当なんだろうと思っていたが、涙が出てくる感じがしない。
もちろん、彼の死が悲しくないわけではない。それよりも彼の死があまりにも突然だったわりに、この墓地に埋葬するようになったのは、彼の意志だという。彼の遺族からは、それ以上のことは教えてもらえなかったが、どうして先祖代々の墓地に入ることを自分から拒んだのか、彼女にも分からなかった。
彼女は、立ち上がると、自分が持ってきたスケッチブックを開いてみた。そこには製作途中である鉛筆画が描かれていた。方向を整えて海に向かって、両手を伸ばすと、目の前の光景と見比べているようだった。
「やっぱりまったく変わっていない」
季節は巡っているが、丘の上から見える光景に、何ら変化は見られない。
「正樹さんが、ここに葬ってほしいと言った気持ち、私は何となく分かる気がするわ」
と言いながら、正樹の墓前の前にある少し大きめの一枚岩に腰を下ろした。椅子にするにはちょうどよく、筆記具をカバンの中から取り出した彼女は、どうやら、そこで続きを描き始めるようだった。
「前に来た時は暑すぎて、すぐに引き上げたのよね。ごめんなさいね、正樹さん」
と、スケッチブックに筆を落とす前に、そう呟きながら、墓前に謝っていた。
『大丈夫だよ。俺は君のことが心配なんだ。決して無理なことをするんじゃないぞ』
そんな声が聞こえてきたようだが、もちろん空耳に違いなかったが、彼女の中では、死んだ正樹が声で耳に訴えかけることができなくなったかわりに、墓の前であれば、直接脳内に語り掛けることができるような、そんな力を持っているかのように思えて仕方がなかった。
「本当に平和だわ」
そう言って、やっと彼女はスケッチブックに筆を落とした。どこから最初に筆を落としていいのか難しいところであったが、絵を描くことをずっと趣味にしてきた彼女には、そんな意識はなかったのだ。
「最初に目についたところに筆を落とせば、それでいいのよ」
と思っていたのである。
彼女も十何年も前からずっと絵画を趣味にしてきたので、最初に筆を落とす部分を意識することはあまりなかったが、最初に描き始めるようになれるまでの一番の難関は、
「スケッチブックのどこに最初に筆を落とすか?」
ということだった。
彼女が絵画に目覚めたのは、中学の時だった。小学生の頃までは、芸術関係はいくら授業でも嫌で嫌でたまらなかった。芸術関係の授業を受けるくらいなら、国語や算数の授業の方がよほどマシで、子供心に、
――どうして好きな教科だけを受けさせてくれないんだろう?
と思ったものだ。
芸術に特化するようになってからは、小学生に感じたその思いが、
――結局は自分を絵画の道に導いたのだから、こんな皮肉なことはないわ――
と感じるに至らせたのだから、実に皮肉なものだった。
しかし、小学生時代はそんな意識があったわけではなく、
――とにかく嫌なものは嫌なのよ――
と、やらされているという意識の強さが、彼女の中で爆発しかけていた。
逆に、その「やらされている」という意識がなくなれば、芸術的なことへの抵抗感も自然となくなってきた。
つまりは、縛られたりすることが一番嫌だと思っていた子供時代、宿題をするのも嫌だった。
わざとやっていかずに先生を睨みつけて、先生から干されてしまった時期もあった。
「そんなに意固地にならなくてもいいのに」
というクラスメイトのウワサが聞こえてきたが、ウワサをする人たちは「やらされている」ということに何も感じないのかが不思議で、そんな自分が理解できない人たちが影で何を言っていたとしても、気にしなければいいだけのことだった。
中学に入ると、ある日、家の近くの河原でスケッチブックを片手に、絵を描いている人がいるのを見た。近づいてその絵を覗き込んでみると、鉛筆画のデッサンで浮き上がってくるようなその絵を見ると思わず、
「素敵な絵だわ」
と、声を掛けてしまった。
その人は振り向くと、
「そんなことはないさ。でも、そういってくれるのは嬉しいよ」
と言っていた。
その人は年齢的に大学生くらいであろうか、髪の毛は無造作に伸びていて、髭も中途半端に伸びているようで、お世辞にも好青年とは言い難かった。しかし、
「いかにも芸術家」
というそのいで立ちに、思わずニッコリ微笑んでいた自分にビックリさせられたのだった。
「君が綺麗だと思ってくれているのと、描いている自分が見ているこの絵とでは、決定的な違いがあるんだけど、君にはその理由が分かるかい?」
と言われて、何と答えていいのか分からなかった。
何となく分かっているような気はするのだが、言葉にしようとすると難しい。相手に自分が何を考えているのか、それをどう伝えればいいのか、その難しさを、その時初めて知ったのだった。
今にも喉の奥から出てきそうな言葉を呑み込んだり、もう一度咀嚼しているような様子を見たその人は、
「どうやら君は聡明な女の子のようだ。きっと分かっているんだろうけど、どう表現していいのか、分かっていないだけなのだろうね」
と、自分の言いたいことを言ってくれて感動したことで、思わず何度も頭を下げ、
「うんうん」
と興奮気味に目を見開いていたのではないだろうか。
彼はニッコリと笑うと、
「やっぱり分かっているようだね」
とさらに笑顔を向けられると、恥ずかしさから、紅潮した顔を上げることができなくなってしまった。
「じゃあ、僕から言おうかな?」
「お願いします」
「僕は最初からこの絵を見ているんだけど、君は今初めてこの絵を見たんでしょう? 違いってそれだけのことなんだよ」
何とも当たり前のことだった。
しかも、
――それだけのこと?
確かに当たり前のことではあるが、そのことを言葉にできるかできないかというのは、大きなことだった。
――私は言葉にできなかった。それなのに、彼は簡単に言葉にできる――
そう思っていると、彼は続けた。