二重構造
「これは、正樹さんの机のカギなんですよ。正樹さんは自分の身に何かが起こるのを知っていたのか。合鍵を作ったようで、それを僕に渡してくれたんです。僕には、彼の身に何かが起こるかも知れないことを検知できていたのに、何もしてあげられなかった。だから、その悔しい思いもあったし、自分が『必要悪』なんだという自覚もあったことがジレンマとなって、しばらくどうしていいのか分からなかったんですよ」
「じゃあ、投書というのは?」
「それは本当です。ただ、一番彼の死に疑問を抱いていたのは、自分かあすなさんだということは分かっていたのですが、他の人にはそのことが分かるはずはないですよね。それなのに、どうして投書の相手が自分なのか、それが疑問だったんです。だから、すぐにはあなたの前に現れなかった。あなたに迷惑が掛かるかも知れないと思ったからですね。でもそれ以降、投書してきた人から何も言ってこない。そうなると、今度は投書の相手が誰なのか、再考しないといけないと思ったんです」
あすなは、少し考えて、
「まさか、その投書の相手が私だと思われたんですか?」
「ええ、そう思ったからこそ、あなたの前に現れる気になったんです。そして最初からカマを掛けることで、あなたの様子を見ようとした」
「でも、その投書が私ではないと思ったから、あなたの心情を私に話してくれる気になったんですね」
「その通りです」
「あなたは、手にしているそのカギが、文字通り、何かのカギを握っていると思っているんですね?」
「ええ、じゃないと、僕に合鍵なんか持たせてくれるはずないからですね。しかも、カギを渡したのはあなたではなく僕だったということは、あなたに危害が加わらないように配慮したこと、それはある意味、彼の死に誰かが関わっているとすれば、それは研究室の中の人ではないかと思ったからです」
「香月さんの言いたいことはよく分かりました。でも、私にはまだ何か信じられないものがあるんですよ」
あすなは、虚空を見つめた。
「あすなさんの発想は、僕の考えていることと少し違っているようですね」
「ええ、私は彼が死んだということ自体が信じられない気がするんです。確かに私の立場で、彼の死に疑問を抱いているといえば、それは人情的に仕方がないと思われるかも知れない。私も、確かにそれも少なからずあるとは思うんですが、それを差し引いても、どうしても疑問が残るんです」
「それは口で言い表せることのできないものだと思われているんですね?」
「ええ、そうなんです。その気持ちを分かってくれる人がいるとすれば、今は香月さんしかいないと思っています」
あすなは、香月に対して、どこか頼りがいのようなものを感じていた。
それは、かつて正樹に感じたものと同じものかどうか、ハッキリしないが、少なくとも今頼れるのは香月しかおらず、彼が敵ではないと分かった時点で、何でも話せるような気がしていたのだ。
「とりあえず、せっかく正樹さんが残してくれたこのカギ、あなたに預けまずので、よろしくお願いします」
「はい、分かりました」
あすなは翌日、正樹の机の中の一番上にあった自分の研究の論文を見つけ、そこに何か秘密があるのではないかと思い探ってみた。そこで発見したのは、あすなが自分の研究の最後のまとめが書かれていた。
「あと少しで完成なのに」
と思い、その最後の道の遠かったことがまるで嘘のように、完璧なまでに結論が書かれていた。思わず、
「やられた」
と口に出してしまったほどの内容に、あすなは自分の研究者としての魂が覚醒したのだ。
そのことを知っている人が誰もいない。香月がどういう思いでカギをあすなに渡したのか、今となっては、
――遠い過去になった――
と言っていいほど、この瞬間、研究室の空気の流れが変わってしまい、まわりの立場関係は一変した。
「この部屋に空気が流れていたなんて」
あすなは、そう感じたことだろう。
ただ、こうなることを果たして誰が望んだというのか?
一変してしまった状況の中で、最初と気持ちの上でまったく変わっていなかったのは、香月だけだったのだ。
――あすなの思いは、どこに行ってしまうのだろう?
香月のその危惧に答えてくれる人は、誰もいなかった……。
優香と綾
「優香さん、この週刊誌、見た?」
あすなの研究所とライバル関係にある別の研究所の社員食堂で、カレーを食べていた一人の女性に話しかけるもう一人の女性がいた。
話しかけられた優香と呼ばれた女性は、別に興味のなさそうな低い声で、
「いえ、見てないわよ」
と答えた。
「ほら、ここにS研究所で新しい論文が発表されたって書いてあるでしょう?」
S研究所というのは、あすなの研究所のことだった。
週刊誌には、
「S研究所において、『宇宙科学研究』に対して、斬新的な論文が発表された。その研究を発表したのは、当研究所の西村あすな研究員で、彼女の突出した研究発表に、学会も戸惑いを隠せない」
と書かれていた。
ただ、この週刊誌がゴシップ専用の週刊誌で、信憑性に関してはかなりの疑問符があることを世間知らずの二人は分からなかった。
宇宙科学研究というのは、最近になって確立された学問で、タイムマシンや異次元に対しての研究である。今までは非公式には研究されていたようだが、正式に研究されるようになったのは、全世界でもここ数年のことだった。
元々は、ある先進国の「宇宙科学研究所」で、密かに行われていたものだった。
宇宙開発は元より、医学面、ロボット工学などの、研究費用が莫大なもので、なかなか民間では行えないようなことを行っていた機関である。
昔は、軍事面での研究が主だったが、「仮想敵国」の存在がなくなり、国際連合でも軍事的な新しい開発は禁止されたこともあり、軍縮ムードの中、「宇宙科学研究所」の存在意義も大きく変わってきた。
本当に宇宙に対しての研究であったり、異次元の研究と言った、新たな研究を行うことで、国家の威信を保とうとした政治家により、現在は運営されている。
そのおかげもあってか、宇宙研究に関してや、異次元の研究など、「市民権」を得た。先進国では、それらの研究を密かに行うための研究所を以前から持っていたが、どうしても予算の問題で、ほとんど有名無実のような形になっていた。それが社会情勢の変化とともに、脚光を浴びようとする時代が到来したのだ。
この国でも、他の先進国と同じように、国家予算もままならず、密かに行っていた研究も、次第に日の目を見るようになった。
だが、新たな弊害も起こった。
今までは密かな研究だったために、曖昧な研究発表であっても、それなりに評価が受けられたが、国家公認となっては、正当性が証明されない限り、研究することすらままならなかった。
実際に今まで研究されてきたことは、表に出ていないことが多く、そのおかげで、社会に知られないという利点を持って、社会の役に立っていることも少なくなかった。一部の国家最高機関に属する人であっても、「宇宙科学研究」の神髄に触れることはできなかった。つまりは、非公式の研究所は、
「国家であっても、決して冒してはならない『聖域』なのだ」