二重構造
あすなはそのことを思うと、急に顔が真っ赤になってくるのを感じた。
――いつも相手から話してくれたことばかりを信じてきた自分なのに、気持ちとしては、相手の気持ちを読み込んだ思いを抱いていた自分が恥ずかしい――
と感じていたのだ。
香月はその表情を見ながら、優しそうな笑みを浮かべた。
「あすなさんは、自分が相手の心を読めないことを恥ずかしいと思っていますよね?」
またしても、あすなはビックリさせられた。
「どうして分かるんですか?」
「そこがあすなさんのいいところなんですよ。あなたは気づいていないんでしょうけどね。でも、考えてみると、その人のいいところというのは、案外と本人は自覚していないものだったりしませんか?」
香月のいう通りだった。
あすなは、自分がよく話をする相手に対して、その人のいいところを理解しているつもりだった。何しろ、あすなは人と仲良くなる時、まずはその人の長所を見つけようとするからだった。
そのことに関しては、あすなには自信があった。
相手の気持ちを分かると思っていたのも、相手の長所を見つけたことで、、相手の気持ちを分かったような気がしたからだった。相手の長所と考えていることが必ずしも同じであるということはないが、錯覚してしまうのも無理のないことであった。
「長所と短所は紙一重」
と言われる。
あすなはそれも分かっているつもりだった。実際に最初に相手の長所を見つけると、一緒に短所まで見えてくることも稀ではなかったからだ。
――本当は長所だけ見えればよかったのに――
と学生の頃は考えていた。
まずは相手と仲良くなることが先決だと思っていたあすなは、学生の頃は大人しい性格で、人と話をすることも珍しかったくらいだ。特に高校生の頃まではその性格は序実であり、その頃は人から話しかけられても、何も答えることができないほど、閉鎖的な女の子だったのだ。
大学に入ってから、人の長所を見つけることを最優先に考えるようになると、自然とまわりから人も寄ってくるようになった。話も少しずつできるようになり、会話だけで、相手の長所が見えてくるようになった。
大学時代までは、相手の長所しか見えてこなかったのだが、大学院で正樹と知り合ってからは、相手の短所まで見えるようになっていた。
――こんなの、いやだわ――
と思っていたが、実際に見えてくると、長所と短所が紙一重だったことに気づく。
そのことに気づくと、短所も決して悪いことばかりではないかのように思えてきた。
――一緒に考えればいいんだわ――
そう思うことがお互いの気持ちを接近させるカギになることに気づいたのだった。
その思いがあったから、香月が話してくれた、
――「必要悪」としての自分の存在を自分自身で納得させ、正当化させようという考え方――
に賛同できる気持ちになったのだ。
――同じじゃない――
と感じたことで、さらに香月との距離が急接近してきたのを感じた。
しかし、それでもその途中には大きな結界が設けられていることに気づいていた。その結界はあすなが作ったものではない、香月が作ったものだった。
――この期に及んで、この人の中にどんな結界があるというのかしら?
それは、知られてはいけない何かがそこにあるのだということである。
しかし、あすなはその思いに対して、大きな障害だとは思っていない。
――今は大きく立ちはだかっている結界だけど、時期がくれば自然に消えてなくなっているものなんじゃないかしら?
と感じていた。
何しろ近づいてきたのは香月の方である。彼には自分の中に結界が張り巡らされていることは分かっているはずだ。それは、
――相手があすなだから――
ということではないはずだ。
他の人に対しても、途中に大きな結界を築いていて、その結界がいつの間にか溶けてなくなっていれば、初めてその人に心を開くと感じているのだろう。
ということは、まだ彼は完全にあすなに対して心を開いているわけではない。まずは自分を納得させて、相手との距離を縮めることで、お互いに知り合っていく……。
このことは、香月だけではなく、他の人も同じ過程を経て、人との関わりを持っていくものではないだろうか。
あすなは、自分が正樹と知り合った時も、似たような経験をしたのを思い出した。香月を見て、
――懐かしい――
と感じたのは、そのあたりの自分の感情の変化が影響していたに違いない。
正樹の長所を思い出してみた。だが、思い出すことができたのは、短所の方が最初だった。
――正樹さんは、一つのことを思いこむと、まわりが見えなくなる方で、相手がどんなに大切に思っている人であっても、自分が納得しなければいけないことを邪魔すると、あからさまに嫌悪の色を見せる人だったわ――
自分中心主義の人だったと言えるのではないだろうか?
そんな人を、どうして自分が好きになったのか、あすなはいまさらのように疑問に感じていた。
しかし、それがある意味彼の長所なのだ。
――自分中心主義のくせに、いつの間にか、それを分かっている人を惹きつけてしまう――
言葉では言い表すことのできない魅力が彼にはあるのだ。それが彼の長所だと言ってもいい。だから、彼を見る時は、最初に短所が見えて、そこから長所に結びつけるという見方をするので、長所を見つけることができない。
――こんな人は初めてだわ――
あすなは、正直今でも彼のような人の存在が信じられない。特に、この世からいなくなったことで、余計に、
――正樹さんという人は、本当に存在したのかしら?
と、疑いたくなってくるのだ。
最初は、
――無理に彼の話題に触れることがタブーなんだ――
と思っていたが、そうではない。
本当に彼がこの世に存在していたということを忘れてしまっているかのような人もいるように思えてならなかった。
一番ショックだったのは、彼の座っていた研究室での机が、半月もしないうちに整理されていたことだった。あすなはそのことを抗議する気にもなれないほど、あっけに取られている自分を感じていたのだ。
ただ、彼の机が整理されていると言っても、それは机の上だけのことで、机の中を整理したわけではない。彼の席を使う人は誰もおらず、たぶん、人員が補充されても、彼の席に座ることはないだろう。
これは研究室と他の会社の違いであった。
確かに彼の存在について、誰も触れることはないだろうが、机の中の資料まで扱うという人は誰もいない。これは研究者全員の暗黙の了解で、
――自分が同じことをされると嫌だ――
という思いが働いているからに違いない。
したがって、机の中には誰も入り込むことはできない。帰ってくるはずのない彼の机なのに、彼の机はずっとそのままになっているだろう。それが何年続くのか、前例がないので、誰にも分からなかった。
彼の机には、しっかりとロックが掛かっていた。そのカギを持っているのは、正樹本人であり、中を知ることができるのも、正樹しかいないはずだった。
「実はこれ」
と言って、香月は自分のカバンの中から、一つのカギを取り出した。
「このカギは?」
と聞くと、