短編集43(過去作品)
街の中に酒蔵や、武家蔵といった観光スポットがあり、そこは個人が観光スポットとして開放しているところという珍しさがあった。
維新の元勲でもある西郷隆盛が立ち寄ったという武家屋敷、大きな玄関に作られた門は城を取り壊す時に競売されたものらしく勇壮であった。
その隣には喫茶店があり、数席ほどの小さなスペースだが、そこで出してくれるコーヒーはなかなかのものである。
人吉の話は会社の給湯室で女性事務員が話をしていた。いつも数人で休憩しているタイミングによくトイレに立つのは偶然だったが、早苗のことを悟られている話を聞いた日よりも少し前だった。もちろん、旅行に行きたいと思っていたが、予定は漠然としていて、まだどこに行くかまったく考えていない時だった。
萩という街が頭から離れず幕末から維新にかけてという意味でも、薩摩に行ってみたいという気持ちになっていたのは事実だったが、熊本にも行ってみたいとも思っていた。人吉という街の名前は聞いたことはあったが、旅行好きの三郎にして、どこにあるか詳しくは知らなかったほど、あまり大きな街ではないことは分かっていた。
武家屋敷を観光した時には数人の観光客が一緒に説明を受けていたが、隣の喫茶店には誰も立ち寄っていなかった。先を急ぐのか、喫茶店には誰もおらず、奥のテーブルに腰を掛けてコーヒーを注文した。
そこには雑記帳が置かれている。
古くは三年前くらいから書かれているものがあった。
三年前というと、三郎が会社に入社して、まだ新入社員としてまわりが見えていない時期でもあった。雑記帳の日付を見ながらその頃のことを思い出していると、懐かしさが込み上げてくる。
季節は初夏から書かれているが、夏の時期はどうしても学生が多い。
雑記帳というと、湯布院でも見たことがあるが、さすがに湯布院のように観光客が多いところに比べれば、圧倒的に数は少ない。しかし、冷やかしの内容はほとんどなく、皆それぞれ予備知識を持ってやってくる人が多いのか、歴史についての感想や、真面目に感じたことを素直に書いているのがよく分かる。正直三郎はビックリしていた。
書いている内容は女性が多く、観光客に女性が多いのを物語っていた。こじんまりとした街を好むのは、男性よりも女性の方が多いのかも知れない。
さっき武家屋敷で一緒に説明を受けていたのも女性三人のグループだった。彼女たちを見ていると、給湯室の三人組を思い出すから不思議で、一番背が高い女性は実際に給湯室にいつもいる一人の女性によく似ていたように思えるくらいだった。
――きっとさっきの彼女たちは学生なんだろうな――
一生懸命にメモしていたようだった。ひょっとして卒業論文のテーマにしようと考えているのかも知れない。西南戦争の時、西郷隆盛が立ち寄って、ここを宿にしていたと言われる武家屋敷、十分論文にするにふさわしい材料は揃っていることだろう。
三年前の雑記帳は、それほど色褪せることもなく残っている。ということはあまり手垢にまみれるほど見られているわけではない。観光地化されたところでは、三年前というと歴史を感じるほどに雑記帳も手垢にまみれていることだろう。それでも、毎日のように記事があるのは、ここを訪れた人のほとんどが、雑記帳に一言でもしたためている証拠なのだろう。
ゆっくりと読み始めて数ヶ月分読み進むと、秋も深まりかけた十一月頃の記事に差し掛かっていた。
――ちょうど今頃だな――
と思いながら見ていると、目の前に球磨川から見える山に紅葉が色づいて艶やかさを感じていたのを思い出していた。
かなり寒くはなってきているが、太陽の照り付けで、日中はまだ暖かい。電車の窓から差し込んでくる日差しは暖かく、睡魔を誘いそうであったが、睡魔を誘う原因は暖かさだけではない。心地よい揺れも睡魔を誘うに十分で、ゆっくりと渓流に沿って蛇行しながら走る電車の中は、ポカポカ陽気に溢れていた。
蛇行しながらの光景を眺めていたわりには、八代から人吉までの列車の旅、それほど長くは感じなかった。
――きっと、ここに書いている人の多くは、同じ路線でここまで来たのかも知れないな――
車で移動してきた人も多いだろう。はたまた、鹿児島や宮崎から列車で来た人もいるだろう。近くには九州自動車道のインターもあり、九州のどこからでも高速道路で来ることができる。
――おや――
どこかで見たことのある名前を発見した。
そこには東京の山瀬美穂と書かれているが、山瀬美穂というと、給湯室でいつも休憩している三人組の中の一人ではないか。しかも一番背が高い美穂は、人吉のことを話していた張本人である。
――やはりここは狭い街なんだな――
と思ったが、面白いものだ。三年という時間を越えて、美穂の書き込みを見ることになるなんて……。その時の彼女の心境がどんなものであったのか、次第に興味を抱いてきた。
ゆっくりと文面を読んでみる。
どちらかというと小さな字で長めに書かれているので一見読みにくいが、小さいなりに綺麗で整った字を書いているので、却って読みやすい。女の子特有の丸文字でないことも、三郎には嬉しかった。
そういえば給湯室にいる三人の中では一番喋っているのを聞くが、いつも落ち着いているように聞こえる。だから余計に早苗のことを茶化された時には普段感じない女のいやらしい部分を垣間見たような気がして、少しイメージが変わった気がしたのだ。
三年前の美穂は一人旅だったようだ。
初めて来た人吉の街が好きになったようで、また来てみたいと書いている。そして読み進んでいくと、少し気になることも書いていた。どうやらその時、美穂には誰か好きな男性がいたようなのだ。
その人は会社の人で、告白したいができないと言う内容が、乙女心を序実に表しているかのように綴られている。それを読んだ三郎も複雑な気分であった。
――三年前というと新入社員の頃だったな――
一年目は無我夢中で仕事をしていたこともあって、まわりがほとんど見えていなかった。会社内で話をするとしても、仕事の話ばかりである。会社で飲み会があっても、ほとんど男性としか話もせず、それよりも上司や先輩へ気を遣わなければならず、自分のことは二の次だった。
――彼女も二十歳の頃で、自分も二十二歳。恋愛に一番憧れる時期かも知れないな――
女性も男性も結婚を考えるにはまだ早過ぎる歳である。美穂が結婚適齢期についてどう考えていたかハッキリとは分からないが、見ている限りでは、まだまだ結婚など眼中にないだろう。
好きな人についてのヒントはその中には書かれていなかった。ただ、あまり他の部署と連絡を取る仕事をしているわけではないので、同じ部署か、部屋の近い部署であることには違いないだろう。
自分の部署の男性は大体十人くらい、その中で時々転勤や部署替えなどで、半年に一度くらい入れ替わるが、三年前から変わったのはそれほどいなかった。
いろいろ想像しながら、もう一度記事の日付を見た。
作品名:短編集43(過去作品) 作家名:森本晃次