短編集43(過去作品)
悪いことではない。彼女と一緒にいればそれだけで気持ちが暖かくなり、彼女も同じ思いであることを告白してくれた。一緒にいるだけでお互いに気を遣っているわけでもないのに、気を遣ってもらっているような気分にさせられる。それだけ自然な関係なのだ。
ずっとそんな女性の出現を待ち望んでいた。
出会いも自然だった。あまり自然だったので、どこかに見えない作為が隠れているのではないかと勘ぐってしまうほどだった。元々、
――好事魔多し――
という言葉が頭にあり、甘い話は転がっていないはずだと日頃から思っている方だった。だが、甘い話すらあまりにもないと、
――実際に甘い話が飛び込んできた時、本当に冷静でいられるかな――
という不安にも襲われる。おかしなものだ。
しかし、久子と一緒にいると安心感がある。
――安心感こそが、女性に求める一番の思いなのだ――
と感じ、目からウロコが落ちた。
「安心感というのが、これほど心地いいとは思ってもみなかったわ」
と久子も言っていたが、お互いに思いは一つだったということである。雰囲気だけで一緒にいる時間が他の時間とは違った世界を作り出しているのである。
久子のいない人生など考えられないとまで思ったほどだった。一緒にいない時間も常に彼女のことを考えている。そんな時間が新鮮で貴重だったのだ。だからこそ仕事にも身が入るし、生き生きして見えたことだろう。
もっと若い連中は、彼女ができると舞い上がってしまって、仕事が手につかないこともあるようだ。そんなのは坂下に言わせれば、
――相手の女性の一部しか見ようとしないからそんな風に浮き足立ってしまうんだ――
と思ったものだった。
人生で一番楽しいのは年齢的にも精神的にも今の時期だと思っている。もちろん、これから結婚して家庭を作って、それが楽しくないとはいえないだろう。だが、きっと違う世界を見ることになると思っているから、楽しいのが今だと思っている。結婚して楽しくないと思うのは、頭の切り替えがうまくできない人が、
「結婚は人生の墓場だ」
というのではないかと思っている坂下だった。
もちろん、結婚相手というのは言わずと知れた久子である。相手が久子だから結婚生活を想像することもできるし、きっと暖かい家庭を築けると信じて疑わなかった。病院のベッドで動かすことのできない身体を持て余しながら、頭の中では久子への思いが走馬灯のように駆け巡っている。
動かすことのできない頭で、天井の一点を見つめている。ちょっとした模様がついているが、
――病室の天井に模様なんてついているものなのかな――
と不思議に感じたが、それ以上追求はしなかった。ずっと考えていられるほど回復してはいない。精神的に落ち着いた気分になっているが、それも余計なことを考えないから落ち着いていられるのであって、少しでも余計なことを考えようものなら、一気に疲れが出てくる。
――何も考えないでいいということ自体、今までにはなかったことだったな――
すぐ余計なことを勘ぐってしまったり、先を読もうとするくせが身についてしまっているので、こんな落ち着いた気分になることなど今までにはなかった。
――命の洗濯とはまさにこのことだ――
余計なことを考えないでいる方が想像力は豊かになるもののようだ。
気がついてどれだけの時間が経ったのだろう。時間の感覚を忘れてしまうほど、いろいろなことを想像していた。それもすべてが楽しいこと、想像が限界に近づいていたような気がしていたが、それでもいつの間にかまた最初に感じたことに戻っている。自然な考えが自分を落ち着かせ、下手な意識をさせないことが、時間の感覚を麻痺させる。うまく循環しているに違いない。
天井を見つめているのは、普段からあったことだ。
仕事が忙しかった頃、夜なかなか寝付かれなかった。忙しかったのが嫌だったわけではない。むしろやりがいがあって楽しかった。
――会社は俺を必要としてくれているんだ。自分の力を今こそ試す時なんだ――
と思っただけで生きがいを感じるほど、ある意味粋に感じて仕事をするタイプだった。
会社で上司から、
「坂下君、いつも大変だけど、頑張ってくれたまえ、期待しているぞ」
などと声を掛けられれば大変、その日一日が舞い上がった気分になってしまうほど、単純な性格の持ち主でもあった。
「おだてられて、その気になって発揮される実力など、その人の本当の実力じゃないのさ」
という人もいるが、坂下はそうは思わない。おだてられたとしても、その人の内面に潜んでいる実力は、紛れもなくその人の実力なのだ。それを認められない人がいるとすれば、その人こそ人を見る目がないのだ。坂下の考えも少し極端かも知れないが、間違ってはいないと自負していた。
深夜まで仕事をしても疲れない。そんな毎日だったが、帰り着いて布団に潜り込んでも目が冴えているせいか、なかなか寝付けないのだ。そんな時、天井の模様を見ていると、自然に眠くなってくる。それまでの疲れがドッと出てくると言った方が正解かも知れない。
心地よい疲れであることには違いないが、一気に押し寄せるだけに、一旦横になってしまうと身体を動かすことができない。首も動かすことができず、目だけキョロキョロすることができる状態だった。
――今の状況に違和感がないのは、その時のイメージがあるからなんだな――
と自分の置かれている立場を度返しして、状況だけで納得していた。こんな状態で落ち着いた気分になれるはずがない自分だったが、そのことを思い出すと、今度は天井を見つめている目が少しおかしくなってくるのを感じた。
――遠近感が取れない――
普段遠近感が取れなくなると、手を翳して目安になるものを作るのだが、如何せん、今は身体を動かすことができない。じっと見つめていると落ちてきそうな天井にビクビクしながら、視線を逸らすこともできず、目を瞑る勇気もない。何かを考える余裕が少しずつなくなっていくのだった。
少しずつ何かを思い出してきた。
目の前に広がった閃光を思い出したのだが、その閃光は暗闇の中に浮かんだ一瞬のものだった。
今でも瞼の裏に焼きついていても不思議がないほどに眩しかったはずである。見たという記憶もさほど古いものではなく、意識を失う原因となったものが閃光だったということまで思い出してきたのだ。閃光によって失った意識なので、まるで閃光を見たのはついさっきだったと感じている。それなのに瞼の裏に残っていないとはどういうことだろう。
静かに目を瞑ってみる。瞼の裏に残っているのは幾重にも張り巡らされた細かい糸がまるでくもの巣を張っているかのような光景である。
――これが閃光の影響なのかな――
今までにも目を瞑って瞼の裏を感じたことがあるが、くもの巣状態になっていたことは何度もある。別に何か特別なものを見たという記憶はないのだが、くもの巣状態に見える時は記憶に残っている。
――後になって気になったんだから、最初にどうだったか覚えていなくても仕方がないのかも知れない――
と感じる。
作品名:短編集43(過去作品) 作家名:森本晃次