短編集43(過去作品)
「それは分からないわ。ただ、医者だから分かるってこともあるでしょう? 何もかも先生には分かっているって感じもするわね」
「そうね。でも、あなたが気を病んでも仕方のないことよ。私たちの仕事は患者をケアして先生の言うことを忠実に守ることだからね」
それ以上、会話は違う話題に移っていた。坂下は一瞬不安に感じたが、すぐに不安は解消されていく。一気にではなく徐々にであった。解消されるまでの時間も曖昧で、どうやらその間に眠ってしまったようだ。
意識を取り戻してから、確かに余計なことを考えないようにしてきたが、自分のまわりにいた人のことを今まで一切考えなかった。いくら考えないようにしていたとしても、まず最初に考えることは、自分が誰であるか、そして、自分のまわりにどんな人が存在していたかということを思い出そうとするはずである。どうしてそれをしようとしないのか、自分でも分からなかった。
自分が坂下三郎という名前であることは、伊崎先生がいつも手に持っているカルテで確認することができた。しかし、坂下三郎という人間とは一体いくつで、どこで何をしていた人物なのか思い出せないでいる。記憶を失っているのかも知れない。
伊崎先生の巡回が七回目くらいになってからだろうか。
「坂下さん、気がつきましたね」
と声を掛けてくれた。何とか返事をしようと、
「ええ、ここはどこですか?」
と答えたが、果たしてそれが声になったであろうか?
「ここは病院です。あなたは道端で倒れているところを救急車でここに運ばれてきたんです。救急病院の中の集中治療室に数日入っていただきました」
どうやら声になって答えることはできたようだ。そして分かったことは、数日間意識不明で、なぜか道端で倒れていた。しかも集中治療室ということは瀕死の状態か、そこまではなくともかなりの重症であったことは間違いないだろう。一体自分に何が起こったというのだろう。
「どうにも頭が錯乱しているようで……」
と本当であれば手で頭を抑えたいくらいだが、如何せんどこも動かすことができないことに苛立ってしまう。
「無理もないですね。とりあえず身体の回復を一番の優先に考えていこうと思っています。まず身体が動かないことには、頭も働かないと思います。あなたもあまり無理な考えを起こさない方がいいでしょう。とにかくゆっくりとした気持ちでいることです。それが今のあなたにとって一番大切なことだと思いますよ」
「ありがとうございます。そうします」
「看護婦をずっとつけておきますので、何かあったら遠慮なく言ってください。私もいますのでまずは安心してゆっくり静養することです」
というと伊崎先生は一歩横に寄って、そのかわりに死海に飛び込んできたのは白衣の看護婦さんだった。あまり背が大きくなく、かわいらしい感じの女性である。
「よろしくお願いいたします」
そう言って頭を下げた。
「こちらこそ」
顔面は痛んでいないのだろう。ニッコリと微笑んでも違和感はなかった。身体の中で唯一自由が利くのが顔面だけというのもおかしなものである。
坂下に付き添ってくれる看護婦、彼女は伊崎先生を好きな看護婦ではなかった。きっとあの時に隣で話していたもう一人の看護婦に違いない。声の感じが似ているし、アクセントが坂下のいつも喋っているものとは違い特徴があったからだ。伊崎先生も、伊崎先生を好きな看護婦も、二人とも標準語に近かった。付き添ってくれる看護婦とは明らかにアクセントは違っている。
意識がしっかりしてきたという感じはしない。目が覚めた時と意識に違いは感じない。だが、明らかな違いがあった。それは嗅覚である。
――アルコールの臭い――
いわゆる病院の臭いである。それを今まで感じなかったが、伊崎先生と話をしている時からアルコールの臭いを感じるようになっていた。やはりどこかが変わっていたのだ。
次第に記憶が戻ってくるのを感じていた。
自分の名前は坂下三郎、そろそろ三十歳を迎えようとしている普通のサラリーマンである。大学を卒業して、就職した会社は、あまり多く名企業ではないが、不景気の時代であっても何とかリストラなどすることもなく、生活の不安を感じることはなかった。一生懸命に働いていれば結果がついてくるような会社で、それなりにやりがいもある。
そこまで思い出してくると、頭がすっきりしてくるようだ。身体の節々がまだ痛い。全身を強く打っているのかも知れない。
医者の言うとおりにするしかないのは間違いのないことだ。どうやら何かの原因で道に迷い、そのまま行き倒れになってしまったのだろう。運よく人に見つけてもらったからよかったが、もしそのまま誰にも見つけられなければ、こんなものではすまなかっただろう。
集中治療室からは移されたようだ。身体の節々が痛いというよりも、動かすことができない。意識が戻れば徐々に身体を動かすこともできるだろうと思っていたが、少し甘かったようだ。
思ったよりも重症だったに違いない。それにしても、一体今日は何日なんだろう? ここに運ばれてきたのはいつで、どれくらいの期間意識もなく昏睡状態でいたのだろう? 考えていると頭が痛くなってくる。
何かを思い出そうと余計な気を遣ってしまう。その時だけ頭痛が襲うのだ。それ以外はすっきりしている。身体が動かせないこと以外はある意味気分は爽快だった。
――ここに運ばれる前、何かで悩んでいたのかな――
と思えるほどだ。どこかに何かを忘れてきたような気がする。今ベッドの上で不安を一切感じない。不安を感じずに今まで生きてきたはずがないという意識があるため、却って不安のないことが気持ち悪く感じられる。
それにしても、誰も面会に来ていないとはどういうことだろう? 坂下には両親や姉がいる。また付き合っている女性もいるではないか。少なくともいなくなってしばらく経っているはずだから、気を揉みながら探し続けてくれているはずではないかと思っていた。
――この俺が誰なのか、病院側で分かってないのかな――
と感じたが、すぐにその思いは打ち消された。さっきまでいろいろ考えようとすると頭痛に苛まれていたが、今は冷静に考えられるようになった。冷静になれれば今までにないほど冷静でいる自分に気付き、無意識に頭痛を再発しないようにしているに違いないと感じた。
伊崎先生のカルテにもしっかり坂下という名前が書かれていた。そして実際に名前を呼ばれて違和感なく答えていたではないか。裏を返せば、身元を確認できるほど入院期間が長かったということである。昏睡状態で意識不明だったのは一日や二日というわけではないだろう。
両親や妹もさることながら、今頭に浮かんでいるのはずっと付き合ってきた女性のことである。名前を山田久子というが、彼女とは会社の同僚である。
彼女との交際はすでに会社では公然となっていて、いずれ結婚するであろうことはまわり皆が認めていた。元々付き合い始めた時からお互いに気持ちが盛り上がっていて、どこかでトーンダウンしないといけないのではないかと思うほど、ヒートアップしていた。
作品名:短編集43(過去作品) 作家名:森本晃次