短編集43(過去作品)
「二人にそんな素振りはなかったけど?」
「お父さんは、その時、私やあなたを捨てて、その人にも家族を捨てさせようとしていたの。相手の女も相当な強かものだったようで、お互いに気持ちが盛り上がっていたみたいなの。お父さんは、その時真剣に相手の女性を奪った快感に酔いしれていたみたい」
「お母さんには分かっていたんだね?」
「ええ、指摘してから少しして、お父さんは魂が抜けたみたいになったわ。きっとお父さんの中で何かが弾けたみたいにね」
それが父の哀愁に満ちた姿に繋がったのだろうか。
「哀愁に満ちたお父さんの姿って、その時のことなの?」
「ええ、だからお母さんはあなたが万引きをしたと聞いた時、お父さんへの憎しみがあなたに行ったのかも知れないわ」
だから必要以上な怒りがあったのだ。理不尽だと思いながらも、自分で意識がないので、他人事として聞いていただけではあったが……。
母は続ける。
「あなたから無意識だって言われた時、本当にそうだと思ったのよ。だけど、無意識の方がお母さんには怖かった。まるで誰かに操られているように思えたからなの。あなたの後ろに誰かが見えた気がして怖かったわ」
そういうと、お母さんは天井を見たまま黙り込んでしまった。結局その日、その話はそこで終わってしまった。
母の話は実に穏やかだった。そこには恨みの表情もない。あの時に母が怒っていたのは将人が万引きをしたからではなく、無意識の行動だったからだ。そして将人の後ろに誰かがいて、その人が操っているように見えたからだったに違いない。
その話を聞いて、将人もそんな気がしてきた。だからこそ、父の哀愁を漂わせて歩いている姿を見ながら、後ろから誰かに見られているのを思い出したのだろう。その人がその時の将人を操っていたのだろうか。
将人自身だと思っていた後ろから見ている人、では、その時から自分は自分ではなかったのかも知れない。まるで夢の世界の出来事のようだ。
そういえば今まで見た夢の中で、怖い夢の部類に入るものとして、誰かが部屋に入ってきて、それが自分だったという夢があった。目が合ったと思った瞬間に目が覚めたのだが、今から考えれば続きがあって、それを最後まで見ていたような気がする。ただ夢から覚めるにしたがって、頭の奥深くに封印されてしまったのだろう。母の話を聞かなければ、永遠に封印されていたに違いない。
誰かに追われる夢を見たことがあるのを思い出した。
なぜ追いかけてくるのか理由は分からないが、おじさんらしき人が必死の形相で追いかけてくるのだ。手には棒を持っている。捕まると折檻されるのは目に見えていた。折檻が怖いわけではなく、捕まって皆に追いかけられたことの理由を公開されるのが怖かったのだ。
――夢の中の自分は子供だったんだ――
と感じるが、それが子供の頃に見た夢なのか、大人になってから見た夢なのか分からないからだ。
――ああ、もう少しで捕まってしまう――
と思った時、逃げることだけを考えて前を見ていたせいか、角があることに気付かなかったが、捕まってしまうと思った瞬間、目の前に角が現われた。
咄嗟に曲がる。すると、そこはまったく知らない世界が広がっていた。
遠くに山が見える。そこまでには大きな平原が広がっていて、少し行くとサトウキビ畑のような自分をすっぽりと隠してくれる林があった。
――あそこまで逃げ込めば何とかなる――
その頃には息苦しさと喉の渇きから逃れたいという気持ちだけが優先していた。もし、角を曲がってサトウキビ畑がなければ、おやじに捕まっても仕方がないと思えるほど、苦しみから逃れたい一心だった。
しかし、その時将人の手を引っ張る人がいた。
「早く、こっちだ」
渋い声の男だが、苦しさのせいかその男性の出で立ちや雰囲気に気付かなかった。
男に引っ張られてサトウキビ畑に逃げ込むと、少しして洞穴が見つかった。
「ここは私の隠れ家なので、安心していいぞ」
やっと落ち着けたが、呼吸が整うまで、かなりの時間が掛かった。
意識が朦朧としてくるのを何とか耐えて、しっかりと意識が戻ると目の前の男が時代劇さながらのちょんまげ姿だったことに驚かされた。
その瞬間、自分が夢を見ていることに気付いた将人は、ちょんまげの男が自分に関係の深い人だと直感していた。
夢だと感じながら、その男の存在だけは否定できない。顔を見ていると父親にそっくりだったからだ。
「君のお父さんも一度こうやって助けたことがあったんだ。一度だけだったけどね。まさか君まで助けることになろうとは思わなかったよ」
と男は話した。
この世界が自分の見ている夢の世界であることには違いないのだろうが、助けられたことには違いない。父親も助けたというが、父親の夢にもご先祖様が現れたのだろうか。
「私は君の先祖に当たる。本当は大泥棒なんだ」
と話したが、それを聞いても、
「やっぱり……」
と答えるだけで、驚きはあまりなかった。
「あまり驚いていないようだね。君の父親もそうだった。きっと、二人とも自分の中で、私からの遺伝に気付くものがあったに違いないね」
その時の夢は、万引きで捕まった後に見た夢だろうか。それとも他人事のように聞いているからだろうか。父の後姿を見た時、
――以前にも感じたことがあるようだ――
と思ったが、この夢を見た後であれば、その気持ちも納得がいく。
夢はそこで終わってしまった。またしてもその後を見たのかも知れないと思うが、覚えているのはそこまでである。
自分を追いかけていた人間、それは誰だったのだろう。離されないように必死になって追いかけてきた。恐ろしさだけが襲ってきたので、誰かということまで考える余裕はなかった。後から冷静に考えれば、捕まえようとしたこと自体が事実なのか疑わしい。ひょっとして何かを訴えたくて追いかけてきたのかも知れない。その場で立ち止まって確認すれば、その人と話をする気になったかも知れない。
――お母さんかも知れない――
お母さんだとすれば、逃げてはいけなかった。逃げたために何か大切なものを見失っていたのではないかと思うと、いくら夢の中でもあまりいい気はしない。病院の床に臥した母親を見れば見るほど、追いかけられた夢を思い出してくる。
ちょんまげ男の顔をじっと見ている。すると、男の顔が父親の顔に変わってくるように思えた。それも厳格な父親の顔で、本来ならあまり思い出したくない顔である。
この顔で何度怒られたことか。普段はあまり怒らなかったが、いつ怒り出すか分からないと思っていただけに恐ろしさはいつも持続していた。特に父は子供の将人とは常識の感覚に隔たりがあるのか、
――まさかこんなことで怒り出すなんて――
と思うようなことで表情が怒り狂うのだった。
――自分は誰に似たのだろう――
と思うが、母でもない、父でもない。ひょっとして、遥か以前の先祖の誰かなのかも知れない。
そんなことを考えている時に夢に出てきたちょんまげ男、彼は先祖だと言っているが、確かに他人とは思えないところがある。
ちょんまげ男の顔が次第に和らいでくるのを感じていた。最初は表情に慣れてきたからだと思っていたがそれだけではないようだ。
作品名:短編集43(過去作品) 作家名:森本晃次