短編集43(過去作品)
藍子が将人を見る目は、まるで自分を見ているというよりも、自分の後ろにいる人を見ているように思える。それは将人自身が藍子に近づこうとしないからそう感じるのだろうか。それだけではないような気がする。
適度な距離を保った関係というのは、学生時代にもあった。その時は片想いで、相手はきっと将人のことなど見向きもしなかっただろう。
それでもよかった。気付かれない方が、遠くから見ている方が安心感を与えられる。見ているだけの方が癒してもらっているという気分にさせられる。
しかし、夢でだけは恋人同士である。勝手に会話を思い浮かべたり、デートのシチュエーションも勝手に考え、勝手に悦に入って彼女を征服したような気持ちになれる。
――僕ってナルシストなのかな――
と感じたのはその時だった。
実際にはできないことを想像だけで満足できる。想像力に長けているというのは、自分にとっていいことだと思っていた。
しかし、それだけで我慢できる年齢というのは決まっているようだ。歳を重ねれば満足できなくなる。
それを考えると、母親の話していた、
「うちの先祖は大泥棒だったんだからね」
という言葉をまたしても思い出していた。
想像だけでは我慢できずに、泥棒までしてしまう先祖、一体どんな人だったのだろう。想像もつかない。
将人は小さい頃から父親の後姿を見て育った。実際に後ろ姿が好きだったのだが、堂々としていたところが好きだった。文句など言わず、自分の考えていることをテキパキとこなしている時の父親を見ていた。
――いつも、そんなに肩肘ばかり張っていて、大丈夫なのかな――
と思っていた矢先だった。部活の帰り、そう、あの忌まわしい万引きで捕まってしまったあの日に見た父親の後ろ姿があまりにも哀愁が漂っていた。今から思い返すと、万引きをして捕まったという事実よりも、父親の哀愁に満ちた背中の方が忘れられない。その時の話は将人自身胸に閉まって、誰にも話していない。
「お父さんの哀愁に満ちた姿、私も見たかったわ」
窓から差し込む日差しに照らされ、眩しいはずなのに、しかめることもなく表を見ている母親が呟いた。
「お母さん、どうしてそれを?」
「あの時なんでしょ? あなたが万引きしたって言われて出頭した時のことを、お母さんは覚えているわ」
「どうして、今頃そんな話を?」
将人は顔が真っ赤になってしまった。過去の忌まわしいことを今さらどうして穿り返す必要があるのだろうか。母の真意が分からない。
「病気で倒れてからベッドの上でいろいろ考えたり、今まで見たことがあまりなかった夢というものを見ていると、気付かなかったことに気付いてきたりするものみたいね」
笑顔で話す母の顔に屈託は感じられない。
「でも、どうして、僕がお父さんの哀愁に満ちた姿を見たって知ってるの?」
「それはあなたが、あの時に話したことなのよ。きっとあなたは覚えていないと思っていたわ」
「あの時って?」
「ちょうどお母さんが呼び出されて行った時、あなたはお母さんが来たことを覚えている?」
言われてみれば、母親が来てくれたことは記憶にあるが、それもかなり興奮していたのと、自分がどうしてそこにいて、何を戒められていたのか分からない状況だったことで、その時の状況の順序がまったく分かっていなかった。
「来てくれたのは覚えているけど、まともに顔が見れなかったよ」
「そうね。あなたはすぐに顔を逸らしたわね。でもあれは反射的な行動だったんでしょう? お母さんにはそれが分かっていたわ。だから、お母さんもあなたの顔をまともには見なかったのよ」
確かに母親からまともに顔を見られたという記憶はない。厳しい視線を感じたという記憶はない。
だが、帰ってから浴びせられた罵声は覚えている。顔もまるで鬼の形相だったはずだ。それでも、そのすべてが一瞬だったように思うのは時間が経ったからだろうか。いや、確かに一瞬のことだったに違いない。
浴びせられた罵声も一言二言、後は黙り込んで重苦しい空気に包まれた中で逃げ出すことのできない息苦しさだけを感じていた。
萎縮してしまうとはこのことだ。その日は自分でも何が何だか分からずに過ぎてしまっていたので、理不尽な怒りを買っていると思いながらも逆らう気持ちにはなれなかった。怒られているのは事実、だが、その行き先は自分を通り越して後ろにいる誰かに向けられている気がして仕方がなかった。
だからであろうか、罵声を浴びて萎縮はしても、気持ち的には他人事のように思えた。罵声を浴びていることに対して萎縮しているだけで、罵声の内容に萎縮していたのではない。まるで魂の抜け殻のように、ただ立ち尽くしていただけだった。
後から思い返して覚えているのは、その時の部屋が妙に暗かったということだ。いつもと同じ電気なのに、なぜか暗く感じられた。その分、影がしっかり見えていたとも言え、陰がハッキリ見えていたから、薄暗く感じたのかも知れない。
あまり電圧供給のよくないところでヘアドライヤーのような電圧の高い電気製品を使うと、一瞬電気が暗くなったように感じるが、気になるほどの暗さではない。そんな雰囲気に似ていた。
病院のベッドに容赦なく降り注ぐ明るさとは、まったく正反対だ。しかし、同じところもある。それは影がハッキリとしていることだ。明るい部屋の方が序実に鮮明であることに気付くが、暗い部屋で影がハッキリ見えるというのもおかしなものだ。
――まるで鬱状態の時のようだ――
中学時代というと鬱状態になったことはなかった。ひょっとしてなっていたかも知れないが、それが鬱状態だったということに気付いてはいない。暗い中でまわりがハッキリと見えてくるのは鬱状態での特徴、きっと以前から兆候があったに違いない。
罵声を浴びせられた時の母親の顔がハッキリとしない。後ろから光が当たってシルエットになっているかのようだが、全体的に暗い中、覚えていないのも当たり前かも知れない。
母が怒っていたのは、本当に将人にだったのだろうか。その思いを持ったまま大きくなった。一番聞いてみたかったことだが、奇しくもその日将人が見た父親の後ろ姿の話をしたのが母親からだったというのも皮肉なものだ。
あの時、まったく意識のなかった将人、その時意識がなかったことを母親だけには分かっていたに違いない。怒り狂う気持ちの中で、まったく無意識の人間と分かっていて罵声を浴びせるなど、今の母からは考えられない。
あの時の母も将人にではなく、違う人に向って罵声を浴びせていたように思う。それではその人とは誰なんだろう?
あの時に背筋を丸めて歩いていた父、その後姿を見た時に、まるで自分も誰かから見られているような気がしていたことを思い出した。ハッキリとした視線を感じたわけではないが、背中に当たる熱い視線は、他ならぬ自分が見つめている父に対してのものに似ていた。
病に臥している母が告白してくれたことは、将人にとってはまさに晴天の霹靂だった。
「昔ね。お父さんは他の女の人のところに走ったことがあるの」
「あのお父さんが?」
「ええ」
堅物で、女性に興味などないと思っていた父が女性に走るなど考えられない。
作品名:短編集43(過去作品) 作家名:森本晃次