短編集43(過去作品)
まるで昨日のことのように思えるくらいなのだが、その時は足の感覚が麻痺するほどの痺れはなかった。気だるさは普段の夕日に感じるものと同じだったが、今度は喫茶店に入って座った途端に、一気に気だるさを感じていた。
夏みかんジュースを頼んで、一口飲むまでは痺れが取れなかった。雑記帳を捲るだけの気力もなかったとでも言うべきか、それでも暖かい夏みかんジュースが喉の奥に沁みこんでくるのを感じると、痺れも徐々に抜けてくるのだった。
一年前のページへと目を移す。そこには確かに自分の書いた、
「この街は綺麗ですね。訪れてよかったです」
という文字を発見することができた。あまりにもありきたりなことを書いてしまったことに今さらながら恥ずかしさを感じるが、よく見るとそのページだけがかなり色褪せて感じられたのだ。
他のページはそれほど汚くはないのに、このページだけがかなり手垢にまみれたようになっていて、ベロンベロンになったページの端が今にも破けそうに感じられる。
何よりもボールペンのインクが滲んでいて、もうしばらくすると見えなくなるのではないかと思えるほどで、水に濡れたような跡さえあり、どうしてここまで汚れるのか分からなかった。
――こんなありきたりな文章を、他の人が熱心に読むとは思えないし――
と不思議ではあったが、今年もまた何かを書き残そうと考えていた。
どうしてもありきたりな文章にしかならないがそれでも、ちょうど一年後に訪れたということ、同じ感動を味わえたかどうか、分からないということ、そしてなぜか一年前の雑記帳が手垢に汚れていたということを事実として書いていた。
そしてまた同じことを翌年も繰り返した……。
萩というのは三郎にとって不思議な街として残っている。点在する観光スポットには何度行っても飽きないし、初めて来たような新鮮さを感じる。そんなことは他の街では考えられないことであった。
気になる女性を見かけたのはその時だけだった。
背が高く、髪も毛が背中までストレートに伸びていて、清楚な感じを思わせる。前から見た姿は、ほとんどぼやけてしか覚えていない。なぜなら、彼女がこちらを向いた時には、必ず夕日を背にしていたからだ。
今から思い起こすとそれも不思議だった。どう考えても夕日の方向ではないところに立っているのを見かけたのに気付いたからだ。そういえば他の土地で見る眩しさとは明らかに違う。眩しくて目を背けてしまいたいのだが、我慢すれば見れないことはない。本物の夕日では考えられないことではないだろうか。
それを感じたのは帰ってきてからだ。帰ってくる途中でもずっと考えていたのに、家に帰ってきた途端に思い出すのだから、旅の世界と自分の家で作る自分の世界とは、かなりの隔たりがあるに違いない。
どうしても勝手に女性のイメージを思い浮かべてしまう。それまで好きだったはずの賑やかな雰囲気などかけらもなく、そのおかげで自分が好きな女性は、
――物静かで背が高く、どこか気品を感じさせる女性――
へと固まっていった。
――あれから何年が経ったのだろう――
と思いながら、初めて来た土地人吉で、美穂の記事を読んでいる。
いつも気になっていた早苗に感じた想いは、
――自分の好きなタイプに一番近い雰囲気を持った女性――
というイメージだった。だが、ここ人吉に来て美穂が書いた雑記帳を見ていると、そんなことはかなり過去のことだったように思えてならない。
目の前に雑記帳を置いて、美穂の顔を今さらながらに思い出していた。
会社のフロアを思い浮かべる。そこにはせわしなく働いている課員の姿が思い起こされる。本当であれば旅先で仕事場のことを思い起こすなど考えられないことなのだが、その時の三郎はそうでもしないと美穂の顔を思い出せないように思えたからだ。
事務所に日差しが差し込み始めた午後三時、昼下がりの休憩にはちょうどいい時間だ。
トイレに立つ三郎。自分の姿が想像の中ではハッキリと見えている。思ったよりも猫背で、もっとしっかりしているかと思っていたが仕草もあまりパッとしない。そんな三郎を給湯室の三人組は冷めた目で見ているのだった。
マグカップを両手で掴むように三郎を見ている三人は、三郎について口を開こうとしない。ただ目で追っているだけだが、美穂の表情だけは何かを言いたげに見えるのは想像だからだろうか。
想像ではいくらでも勝手に暴走できるものだ。夢のように潜在意識の中でだけ存在するものではなく、果てしないものかも知れない。しかし、そのことを意識できるようになるまでにはかなり時間が掛かった。そう、二度目に萩を訪れた時に初めて感じたのかも知れない。
――萩で見た彼女はあくまでも自分の想像なのかも知れない――
想像? それとも創造?
頭で勝手に思い浮かべるのが想像、しかし、それを形にしようとするのが創造だと思うようになった。ポジティブな考え方だと思うが、創造できるのは所詮夢の中でだけだ。
――想像するだけなら夢を飛び越えることができる――
違うだろうか……。
人吉という街に西日の眩しさは感じない。むしろ静かで人工的なイメージが強い。
夕日にしても、
――本当の夕日なのか――
と疑いたくなるほどで、まるで空までもが作られたものではないかと思えてならない。それこそ創造である。
――夢を見ているのかも知れない――
と感じることがある。それは三郎に限らずであるが、そう感じる時というのは、きっとまわりがすべて何かによって人工的に作られた創造、ひょっとして自分の気付かぬ意識が作り出しているものではないかと感じているのかも知れないが、あまりにも突飛な発想であることは間違いない。
雑記帳を斜め読みしていき、昨年の今日を見てみると、やはりそこには美穂の記事か書かれている。
「私の好きな人は、今年入ってくる新入社員を好きになりそうで辛い」
と書かれている。
ここに来て雑記帳を見るような同じ部署の男性は、他には考えられない。だから安心して素直な自分の気持ちを表現できるのだろう。本当の彼女は純情なのだ。そして最初の記事を見た時から、そこに書かれている男性は明らかに三郎のことを差しているのは目に見えていた。
――それにしても、美穂という女性は、予知能力でもあるのだろうか――
記事を見ていてゾッとしてきた。まるで自分がヘビに睨まれたカエルのように思えたからだ。
美穂の中にも想像と創造に変えてしまうものがあるのかも知れない。自分にとっての想像が現実となって現れるのは、偶然だと感じるのか、それとも創造だと感じるのかで変わってくる。意識をしていなければ想像で終わってしまうだろう。しかし、意識をするから辛さを感じるのであって、きっと美穂には確信めいたものがあったに違いない。
その気持ちがあるからこそ、毎年同じ日にここを訪れていて雑記帳に自分の気持ちを認めているのだろう。
次第に三郎の気持ちは美穂へと傾倒していく。今までは自分が好きになった女性に対して茶化している連中の中にいるだけの女性だと思っていたが、給湯室で三郎を見る目、それは明らかに他の二人と違っていた。
作品名:短編集43(過去作品) 作家名:森本晃次