聖夜の伝染
達郎が自分の後ろに見た誰かというのは、美佐枝以外には考えられない気がしていた。達郎が由紀と別れて鬱状態になった時、別れるきっかけになったことを自分で悟ったのではないだろうか。
ひょっとして、達郎は由紀を見ているつもりで、美佐枝を見ていたのかも知れない。達郎にはどこか年上に憧れているようなところがある、恵美と最初付き合ってみようと思ったのは、恵美の中に大人の魅力を感じたからではないだろうか。
だが、大人の魅力を感じながら、その中に感じたのは、以前に別れた由紀であり、自分を呪縛に陥れることになった相手だと思うと、少し怖くなったのかも知れない。
夢の中に出てきたと思った美佐枝から聞いた話、由紀が自殺未遂をしたということだったが、その原因が達郎だったのかどうか、分からない。最初は夢の中にまで出てきた美佐枝が、
「達郎には気を付けろ」
という警鐘を鳴らしていたのではないかと思ったが、それにしては紛らわしい。後で自殺未遂は勘違いだったと言ったではないか。達郎の何に気を付ければいいというのだろう?
理沙にとって達郎は、恵美と付き合っている男性だという意識しかなかったのに、達郎から恵美のいない間に打ち明け話をされたり、こうやって呼び出されたりするのは、自分に気があるからではないかと思ってみたが、そうでもないようだ。もし、気が合って付き合ってみたいと思うのであれば、今までの話はまったくの無意味である。むしろ、話をすることで、理沙に警戒心を与えることになる。もっとも、達郎という男性が、
――付き合っていく人には、隠し事はしたくない――
と考える人であれば、分からなくもない。
ただ、恵美に対しては、彼女の後ろに由紀を見てしまったことで、これ以上付き合っていくことはできないと思っているのかも知れない。達郎は達郎なりに、悩みを抱えているのだろう……。
◇
達郎とは、このままお付き合いを続けていくことはできないということは、恵美にも分かっていた。ただ、気持ちの中で整理がなかなかつかないのも恵美の特徴だ。実際に整理整頓が苦手なことを自覚している恵美は、男性と別れる時も、そう簡単に納得できる答えを導き出すことは難しいと思っていた。
女性の中にある潔さと未練がましさは、恵美の中で交錯しているのが分かった。どちらかというと潔さが今は強いが、潔さだけで諦めをつけようとすると、その後にやってくる反動に耐えられないということが分かっているので、少しでも柔軟な気持ちにならなければいけない。
恵美は、冷静さが自分の中になければ、整理整頓ができないことで、崩れてしまうだろうと思っている。整理整頓ができないことを冷静さが歯止めとなって、糸の切れた風船がどこに飛んでいくのか分からない状態を回避させてくれているのだった。
達郎が理沙を訪ねてきていることは、恵美は知らない。グループ交際だと言っても、理沙と恵美は、クリスマスのあの日に初めて出会ったというだけで、それ以前の関係性はまったくない。偶然が二人を結びつけたのだろうが、それだけに、達郎と武雄の目には、二人が新鮮に映ったのかも知れない。
お互いに好きな相手がバッティングしなかったのも、好都合だった。グループ交際のような形から入るのには理想的な四人だったのかも知れない。
しかし、その中で恵美と達郎という一角が崩れた。理沙も達郎の訪問を受けることで、武雄に抱いていた感情が、どれほど深いものなのかということに疑問を感じ始めていたのも事実だ。武雄が嫌いだというわけではない。ただ、達郎の存在感が大きくなってきたのだ。そこに美佐枝と由紀という姉妹の影響が多大であったことは言うまでもない、理沙だけが知っていることだと思っていたが、達郎も何かを感じていると思うと、達郎の存在が理沙の中で膨れ上がるのも無理のないことであろう。
恵美は、達郎のそうした心境の変化をウスウス気が付いていた。元々理沙とも別に知り合いだったというわけではないので、本当なら達郎のことなど忘れてしまえばよかったのだ。
達郎とも、まだ知り合ったばかり、少しずつお互いのことを知って行けばいいと思っていただけなのだ。ショックはほとんどない。
しかし、どこかに苛立ちが残っていた。誰に対しての苛立ちなのか分からない。半分は理沙に対して、半分は達郎に対してであろう。考えてみれば正式に付き合って行こうという意思表示をどちらからともなくしていたわけではない。自然と付き合うような形になっていただけだ。達郎と恵美がこんな状態であれば、理沙と武雄も同じであろう。四人の中で一番影が薄いのは武雄であり、武雄がどのように考えているのかを、次第に気にし始めた恵美だった。
恵美が武雄を訪ねたのは、それから数日してからのことだった。学校が終わる時間を見計らって行ってみると、ちょうど武雄が正門から出てくるところだった。
「こんにちは」
恵美は武雄に頭を下げて挨拶すると、あまり驚いた様子のない武雄を見て、拍子抜けしたのを感じた。
「近くの喫茶店にでも行きましょう」
武雄の案内で大学のすぐそばにある喫茶店に連れて行かれたが、こじんまりとした店内では数人の客がいたが、武雄はアルバイトの女の子を制するようにして、指を奥の席に向けて、お互いにアイコンタクトを使うことで言葉はなかった。よほど馴染みのお店なのだということは恵美にも分かった。
奥のテーブルに腰かけると、二人ともコーヒーを注文し、武雄は恵美の発する言葉を待っているようだった。ここに来るまで正門前で出会ってから、武雄の方からの言葉は一言もない。完全に恵美の言葉を待っているだけのようだった。
――この人は何も気にならないのかしら?
少なくとも、友達の付き合っている彼女と言えるかも知れない相手が訪ねてきたのである。何か自分にも関係のある問題が持ち上がったのではないかと普通なら気にするものなのだろうが、武雄にはその様子が感じられない。
武雄が躁鬱症であることは、恵美には分かっていたが、その性格は正反対に訪れる躁鬱ではないもっと複雑な感覚があるように思えた。普通ならありえないのだが、同じ時期に、躁状態の自分と鬱状態の自分が同居していて、一瞬にして入れ替わるというような二重人格的な躁鬱症であった。
「僕には、今まで誰にも話していない過去があるんだけど、それは恥かしいから話せないというよりも、話をしても誰も信じてはくれないんじゃないかと思って自分の胸の中にだけ隠していたことがあるんだけど、恵美さんには話してもいいかなと思うんだ」
ここまで何も言わなかった武雄だが、それは訪ねてきた恵美に対して、恵美から何かを離し始めるのを待っているのかと思いきや、まさか自分から話題を出すとは、恵美もさすがにビックリした。
恵美が話題を出しかねていると思って先に自分から話題を出したというよりも、誰かに話をしようと思っていたのが、ちょうど今だったのではないかと考えることもできた。