聖夜の伝染
という思いを抱かせた。
それは決していい思い出ということではなさそうだ。忘れてしまいたいと思って、実際に忘れていたような感覚を思い出すのだ。
理沙は達郎とも武雄とも初対面である。
――ひょっとして以前にどこかで――
と思い、思い出してみようとしたが、すぐに止めてしまった。忘れてしまいたいことを思い出させる相手が、過去に関係があったなど、思い出すとしても時期尚早だと思ったのだ。少なくとも忘れてしまいたいことが何なのかということが分かって思い出すのであればまだしも、そうでないのであれば、正直、無駄な努力というものである。
「あれ? 理沙じゃない? 久しぶりね」
恵美と二人で入った喫茶店で、一人の女性が声を掛けてきたのだが、その人が高校時代の友達であることはすぐに分かった。
名前を美佐枝と言う彼女は、理沙が高校時代唯一の友達として信用していた相手だったのかも知れない。
元々、理沙はあまりまわりの人を信用しないタイプだった。美佐枝に対して、どうして彼女だけを信用するようになったのかというと、他の友達は皆、自分よりも男性を意識していた。口では、
「友達だからね」
と言っておきながら、彼氏ができれば、理沙のことなど二の次だった。
――彼氏を優先するのは分かるけど、ここまで露骨にされては――
女性同士の友情なんて、しょせんその程度だと思っていたところに現れたのが、美佐枝だったのだ。
美佐枝は、一口に言って品行方正で、人当たりもよく、男性からの人気もあった。それでも美佐枝は、
「あなたが一番の親友よ」
と言って、理沙を中心に、絶えず優先順位をつけていた。
「私のことはいいから」
と、理沙が気を遣うほど、美佐枝は理沙に対して律儀なほどに尽くしてくれた。
別に、そこに主従関係が存在するわけではない。理沙は美佐枝とは同等の関係でいたい。美佐枝もそのつもりでいるので、お互いに無理のないところで気を遣う程度は、何でもないことだった。
それまで人に気を遣うことというのは、白々しさを含んでいることで、理沙は嫌いだった。今でも露骨な気の遣い方は胸が悪くなるほど嫌いであるが、美佐枝との関係はさりげなく、実に自然な感じが、心地よい風に吹かれているかのような気分にしてくれる。
美佐枝のような雰囲気の人は、グループの中には必ず一人はいるだろう。
落ち着いてまわりを見ることができ、諍いが起これば、真っ先に立って、調整しようとするタイプ。目立ちたがりの人であれば、きっとうまくまとめることはできない。落ち着いて状況判断ができ、それぞれの性格をも掌握していなければ務まらない立場であるが、日の当たるポジションではない。
後から思い起せば
「あの人がいてくれたおかげで、グループを存続していけたんだわ」
と、その時のメンバーは皆思うことだろう。遅かれ早かれ後からでも思い出してもらえるのはありがたいことだ。
だが、美佐枝は決してグループの中に入ろうとはしない。あくまでも理沙と一緒にいるだけで、理沙がグループに入っていればどうだっただろうと思うこともあるが、理沙がグループから抜けるなら、美佐枝も一緒に抜けてくれたのではないかと思うほどだった。
そんな美佐枝とは、もう三年近く会っていなかった。卒業後、美佐枝は大学に進学することはなく、就職した先で、すぐに男性と知り合って、結婚したのだ。卒業後一年もしないうちのスピード結婚だった。
理沙は、美佐枝がどんな男性と結婚したのか知らない。卒業前はあれほど仲が良かったのに、卒業してしまうと、
「住む世界が違うのよ」
と、まるで絶縁するかのような言葉を残して、それ以来、ほとんど連絡を取らなくなった。本当に絶縁になってしまい、理沙は、引導を渡された気分だった。
美佐枝のことを気にしないようになるまでに、それほど時間はかからなかった。大学生活というのは、確かに美佐枝が言うように世界が違う。信用が解けたわけではないが、美佐枝のことを忘れてあげるのも、親友としての務めだと思うことで、自分は自分の世界を生きるようにしようと思ったのだ。
美佐枝とは数年ぶりの再会だったが、高校時代とあまり変わっていないのは、どうも気になった。
「彼女、高校時代のお友達なの。卒業してすぐに就職して、その後、これもすぐに結婚したの」
と、簡単に知っていることを恵美に話した。本当に簡単なのは、それだけしか知らなかった自分を今さらながらに感じたのだ。
美佐枝を見ると、少し寂しそうな顔になったが、すぐに気を取り直してか、
「美佐枝と言います。よろしくね」
と、恵美を見て、微笑んだ顔は、やはりどこか寂しそうだ。
学生時代にはあまり笑うことのなかった美佐枝が、微笑んだ姿を想像したことは何度かあったが、今の美佐枝の笑顔は、想像した中でも一番寂しそうな部類の顔だった。
「私、離婚したのよ」
美佐枝の一言で、理沙は一瞬凍り付いた。すぐ我に返ったが、意外な告白に言葉は出てこなかった。
「子供がいなかったのは幸いだったんだけど、やっぱりスピード結婚って、しない方がいいわよ」
と言って、苦笑いをする。さっきの寂しそうな笑顔とは違った笑顔ではあるが、笑顔の種類としては同じものなのかも知れない。
「じゃあ、今はどうしてるの?」
「実家に帰るわけにもいかないので、一人で暮らしてるわ。離婚してから、しばらくは男性が怖かったんだけど、今はそこまで怖いとは思わない。もう一度、新しい人生を歩んで見ようって思うのよ」
「潔い考えね」
と、理沙は言ったが、
――私には絶対にできないことだわ――
と、思ったが、美佐枝の顔を見ると、何となく救われた気がした。高校時代に記憶が遡るが、美佐枝に対して、今でも告白できないことがあった。
高校時代に美佐枝が好きだった男性がいた。
理沙も知っていて、二人が付き合い出すようになればいいと思っていた。
しかし、美佐枝も相手の男性もお互いに会話をなかなかしようとはしない。理沙はそれを見ていてじれったく感じたのだ。
ある日、理沙は相手の男性から、美佐枝に伝言を頼まれた。
「明日の放課後、教室で待っていてほしいって言ってくれないか?」
「どうして自分で言わないの?」
意地悪のつもりで言うと、彼は照れ臭そうに、
「理沙さんに頼むしかないんだ。僕から言うことはできない。僕から言うと、美佐枝さんは意識してしまうでしょう? 理沙さんからの伝言に対して美佐枝さんがどう感じるかを知っておきたいんだ。もし彼女が来なければ、僕は諦めようと思っている」
「分かった」
理沙は、美佐枝に彼からの伝言を伝えた。その時の美佐枝の表情が、まるで苦虫を噛み潰したような嫌な表情になった。
――自分から話してくれなかった彼に対して、美佐枝は怒っているのかも知れない――
と感じた。
「ありがとう。明日の放課後、教室ね?」
「ええ、そう」
念を押したということは、美佐枝は行くんだと思っていた。だが、実際に美佐枝は行かなかった。念を押したのは、自分に言い聞かせるための念押しだったのだ。自分に言い聞かせた答えが、結果教室に行かないこと、つまり彼の望みに従わないことだったのだ。