短編集42(過去作品)
「とりあえず、何かのきっかけを見つけて話をしてみることだね。例えば誕生日だったりするとプレゼントなんていいかもね」
当たり前のことを言っているだけだが、目からうろこが落ちたような気持ちになった。そんなことすら思いつかないのは、それだけ信夫自身、頑なになっているなのかも知れない。
――いや、きっと恥ずかしいという思いが強いんだ――
当たり前のことを当たり前にすることに昔から抵抗を持っていた。それはきっと恥ずかしいからだったのではないかということを、その時に思い知らされたような気がする。
その日、さっそく花を買って帰った。別に特別な日だというわけではないが、
「何を花なんて買ってきて、どうしたのよ」
という言葉でもいい、掛けてくれればそれだけできっかけになるのだ。それだけ二人の会話はなかった。
――最後に話をしたのはいつだっただろう――
思い出そうとしても覚えていない。確かに忘れやすいタイプではあるが、会話の内容さえ出てこない。これは重症だ。
家に帰ってさっそく話しかけてみた。
「花を買ったんだけど、どこか挿すところないかい?」
テレビを見たまま、こちらを振り向こうとはしない。いつもなら仕方ないので自分でやるのだが、さすがにその日はそんな気力もなかった。すぐに風呂に入って眠ってしまったのだ。
夜に目が覚めて起きてくると、花が花瓶に生けてあった。
――これはどう解釈すればいいんだ――
せっかく信夫が買ってきた花だと思って生けてくれたのか、それともきちっとした自分の性格が花を置き去りにすることを許さないのか、どちらかが分からない。結局、花を買ってきても何の役にも立たなかった。
その日からお互いに急速に冷え切っていった。妻の覚悟が身に沁みて分かってきたのである。男としては辛いものだ。
――だが、今の時代、バツイチなどそれほど気にするものではない。離婚したって、またやり直せばいいじゃないか――
と考えるようになった。きっと妻も同じ考えだろう。変な意味で気が楽になってくる。開き直りというものだ。
そう考えると、結婚していた二年間ほどという期間が、あっという間だった気がした。
――もう未練はないんだ――
結婚期間が二年といっても、最後の半年ほどは会話もなく、実に辛いものだった。新婚時代が頭に残っていて、その記憶が次第に遠いものとなっていく。しかし、結婚していた期間は短く感じられるのだ。
一見矛盾しているようだが、気持ちがすれ違ってくると、その矛盾が正当性を帯びてくる。
――別れるなら今だ――
お互いにそう感じたのだろう。
離婚はスムーズに進んだ。
――この二年間がなかったことにしよう――
お互いの気持ちが今になって揃ってきたような気がして、実に皮肉なことだった。やはり性格の不一致という言葉が別れる段階まで来ると、信夫には分かってきた。だが、お互いの気持ちのどこが不一致だったかということは分からない。漠然と、
――お互いに不一致だった気持ちが離婚に結びついたのだ――
という当たり前のことを最後に知っただけなのだ。
それが分かっただけでもよかったのかも知れない。そのまま、分からずズルズルと過ごしていれば、平和だっただろうが、気持ちに感じてはどうであろう? お互いに辛い将来が待っているかも知れない。子供がいなかったのも幸いだった。
そんな時、信夫に転勤命令が出た。また、福岡に戻るというもので、元々願っていたものだ。別れた妻は地元宮崎の人で、宮崎から出たことがなかったこともあり、もしあのまま続いていれば、転勤の際にどうなったかということを想像すれば、別れの時期はよかっただろう。
信夫にしても、お互いある程度納得して別れたとはいえ、離婚ということで、精神的な痛手はかなりなものがあった。このままこの土地にいるのは辛いと思っていた時だっただけに、転勤命令は渡りに船であった。
福岡に帰ってきて、最初は少しだけ元妻のことを思い出す日々が続いた。環境が変わったことと、引越しなどの疲れがでたからだろうが、頭の中はまだ宮崎にいる感覚が残っているのか、見る夢は宮崎が多かった。
必然的に出てくるのは元妻である。
――どうして今になって――
考えても分からなかったが、今考えると、人恋しいという気持ちが強かったからに違いない。
しばらくすると、人恋しいからだというのが分かるようになってきた。それが分かってくると、もう宮崎の夢を見ることはなくなった。今度はさらに前に知り合った理沙子が夢に出てくるようになったのだ。
馴染みの喫茶店である「ボヤージ」の光景が目に浮かんでくる。
――そういえば、こちらに戻って忙しかったので、ボヤージにも行ってないな――
と思うと、いてもたってもいられなくなった。さっそく翌日仕事が終わって行ってみることにした。
三年経った喫茶「ボヤージ」には時間というものを感じなかった。まるで、ボヤージ以外の他のものすべてがタイムスリップしたにもかかわらず、ボヤージだけがまったく変わらず同じ佇まいを示しているように思える。多少大袈裟に感じたが、マスターもまったく歳を取っていないように感じられた。
三年前、
「いよいよだね。寂しくなるよ」
と言ってくれたマスターそのままである。
だが、何がまったく変わっていないかという質問に答えるとすれば、入り口の扉を開けて最初に飛び込んできた光景が、以前に見たのと寸分変わらないものだったことである。
奥のテーブル席には誰もいない。忙しそうに手に持ったグラスを反対の手に持っているタオルで拭いているマスターの姿に凛々しさを感じる。そしてカウンターの一番手前で、一人コーヒーを飲んでいる女性。両手でカップを持って、片肘をついているかのようにしながら、少し斜め上を見て物思いに耽っているように見えた。ひょっとして何か考えごとをしているのかも知れない。
その光景を見て、一瞬身体が固まってしまったかのように思えた信夫だった。
――理沙子――
そこにいるのは、紛れもなく理沙子である。
店内のまわりの環境、そしてマスターのいでたちは表情、カウンターにいる理沙子、どれも以前に見た光景にそっくりでタイムスリップを連想させたが、それは一瞬だった。一つだけ、違うところがあったからだ。
それは理沙子の表情である。前に見た時に比べ、何かが違う。どこか影があるようで、横顔だけだが、最初見た時に感じたイメージが、見つめているうちに変わってきたのだ。最初に感じたイメージは、まわりのシチュエーションから自然に湧き上がったもので、次第に自分の目で見ているイメージに変わってきた。それだけ自分の抱いていた理沙子のイメージと違うということを示している。
「久しぶりだね」
思わず話しかけてみたが、まるで違う人に話しかけているような気になったのはなぜだろう?
「ええ、あなたもお元気でしたか?」
「元気だったよ」
と口では言いながら、離婚という二文字が頭を巡った。しかし、妻と一緒にいても孤独感しかなかった最後の半年を思えば、自由な今は気持ちが晴れやかでもあった。
「私ね。あれから結婚したのよ」
「えっ」
作品名:短編集42(過去作品) 作家名:森本晃次