短編集42(過去作品)
理沙子とお互いに気持ちが盛り上がってきたと思っていたある時、急に転勤を言い渡された。転勤先は宮崎である。
「宮崎……、ですか?」
課長の言葉に耳を疑った。確かにサラリーマンである以上、転勤は付き物である。もちろんそれは最初から覚悟の上でいたはずだ。理沙子とのことがなければ、転勤に何ら支障はない。若いうちに転勤を重ねておくのも今後のためにはいいことのはずだからである。
「少し考えさせてください」
本社勤務しかしたことのない者にとっての支店は、ある意味試練でもある。第一線に近いということもあり、勤務時間も不規則になるだろう。今でもあの転勤を言い渡された日のことは忘れない。
喫茶「ボヤージ」でマスターに別れを告げて宮崎に向った。理沙子とはその後も少しだけ続いたが、やはり遠距離というのは考えていたよりも難しいようだ。お互いにどちらからともなく疎遠になっていったようで、連絡も次第に疎かになっていく。
――そういえば付き合った最初の時、理沙子と別れた原因って何だったんだろう?
今さらながらに考えてしまう。やはり自然消滅だったのだろうか?
別れてから、さらに相手を好きになるということがあるなど、最初は信じられなかったが、理沙子に関しては、その思いが強い。
理沙子との出会いは偶然が多かった。
――会いたい――
と感じると、待ち合わせをしているわけでもないのに、会うことができた。理沙子が言うには、
「あなたの気持ちが分かるのよ」
と言っているが、本当だろうか。少し怖い気もするが、好きな相手だから、嬉しくもある。
三年という月日が信夫にとって、そして理沙子にとって長かったのか、短かったのか。信夫にはかなり長かったに違いない。
信夫は宮崎で一度結婚した。理沙子と完全に音信不通になってからというもの、寂しいなどということはないだろうと思っていたが、やはり男というのは女性が必要なのか、会社の事務員と付き合った。
田舎という独特の雰囲気は、ほのぼのしたイメージにとらわれていると、相手のペースに引き込まれてしまう。気持ちの整理がつく前に、あれよあれよといろいろなことが決まっていった。最後は意志に関係なく、結婚していたというのが事実なのだ。
結婚に対してあまり深い思いはなかった。嬉しいとも嫌だとも感じず、
――そろそろ結婚してもいい年齢なんだな――
という程度にしか思っていなかった。相手に不足もなく、平凡な新婚生活をしていた。
相手がどうのこうのではない。信夫自身の中途半端な気持ちが問題だったのだろう。
――新婚生活というのもいいものだ――
と思い始めた頃に、新妻の方では物足りなさを感じ始めていたようだ。
結婚当初、信夫を喜ばせようと必死だった新妻に対し、どこか冷めたところがある信夫だったので、それも仕方のないことだった。
お互いの気持ちがすれ違う。もちろんお互いを好きだったことには違いないのだが、好きなだけでは結婚生活はうまくいくはずもない。新婚時代はそれでもいいが、相手との気持ちに隙間ができて、お互いに気持ちがすれ違っていてはどうにもならない。
すれ違っているというよりも、接点が少なかった。趣味が合うわけでもない。まわりから見ればお似合いの夫婦だったかも知れないが、結婚ということに対して一番中途半端な気持ちを抱いていたのは信夫自身だったのだ。
喧嘩をしたことはなかった。新妻は社交的だが、それは自分の仲間うちだけのことだった。少しでも仲間から離れたり、初対面の人にはかなり人見知りする方である。
あまり男友達はおらず、男性に対して人見知りしないのは、信夫だけだった。それが信夫には嬉しく、
――自分にとって一番付き合いやすい人なんだ――
と思い込んだのも無理のないことだった。男性に対して人見知りするのに自分にだけしないということは、それだけ自分を特別だと思っていることだということだ。
彼女は積極的だった。というよりも、夫を立ててくれる。まさしく、
――三くだり半――
という言葉がピッタリで、家に帰れば三つ指ついて待っているような雰囲気さえ漂わせていた。活発なところとのギャップも新鮮だったのだ。
だが、それだけに甘えてしまっていたのかも知れない。
――何も言わなくとも彼女なら分かってくれる――
事実、付き合っている時は、言葉に出す前から信夫の行動パターンは手に取るように分かっていたようだ。実に痒いところに手が届く最高のパートナーだったのだ。
結婚してからも変わりなく、信夫の言いたいことやしたいことは熟知していて、そのあたりはうまくいっていた。出しゃばることもなく、まわりから見て、
――似合いのカップルだ――
と思われていた理由はそこにあったのだ。
そんな妻が話をしなくなった……。
――疲れているのかな?
最初はそう感じた。結婚してから、あまり友達とも会う機会が減るのは当たり前だが、その心労が溜まってきているのだと思ったのだ。少し結婚生活に慣れてきた頃ということもあって、
「たまには表に出かけようか」
と声を掛けたことがあったが、返事はなく、あまり面白い表情をしていない。
――こんな顔、初めて見たな――
今までに見たこともない表情で、少しビックリさせられた。疲れている顔をまともに見るのを控えていたということもあるが、見たこともないようなまなざしに、思わず後ずさりしてしまったようだ。
――一番付き合いやすいと思っていたが、どう接していいか分からない――
と初めて妻に感じた。そんな感情を抱いてしまうと、話しかける言葉を失ってしまったように思えた。
――一体、どう接すればいいんだろう?
今まで一番接しやすいはずだった相手が、一番接しにくい相手に変わってしまった。そんな表情を妻はどう感じていただろう。少なくとも、お互いの気持ちがすれ違ってきていることだけは間違いない。
妻との仲がギクシャクしてきたことに気付かなかった。いや、気付かなかったというよりも、自分から避けていたのかも知れない。宮崎にも馴染みの喫茶店を持ち、現実逃避をしてきたが、そこのマスターや常連との話の中で、
「そりゃ村松さん、あんた危ないよ」
という話になった。
「危ないとは?」
「何も言わなければ相手が分かってくれると思うのは付き合っている時までさ。結婚してみたら、言わなくてもいいことまで言わなければいけなくなる。皆それで苦労しているのさ」
中年というにはまだ少し早い感じの人がそう言っていた。喫茶店から呑み屋に場所を移してのはなしだった。彼も今までに何度も嫁さんと修羅場をくぐってきたらしい。その中での経験からの話なのだが、説得力はさすがにある。
「そんなもんですかね」
少し酔っているので、軽くいなしていたが、少しずつ酔いが覚めてくるうちに話の筋が分かってきた。次第にゾクゾクするような恐ろしさが襲ってきたのだ。
――もう手遅れだろうか――
嫌な予感というのは、得てして当たるもので、そう考えれば考えるほど、どうしていいか分からなくなってくる。
「じゃあ、一体どうすれば?」
藁にもすがるとはこのことだ。今まであまり人の助言など聞いたことのない信夫がどうしたことだろう。
作品名:短編集42(過去作品) 作家名:森本晃次