オーロラとサッチャー効果
翔子は、その状況を思いうかべてみた。今までに苛めというものに遭ったことはなかったが、クラスに苛められている子がいたのは小学生の頃だった。自分は端の方にいるとはいえ、団体に所属していたので、苛めに遭うことはなかったが、今から思えば、自分が苛めに遭いたくないという理由も、団体に所属する言い訳のようなものだったように思う。団体というのは、存在しているだけで、団体を構成している人を守ってくれるような気がしたのだ。そしてその思いに間違いはなかった。確かに翔子の目論み通り、苛めに遭うことはなく、平穏な時間を過ごすことができた。
しかし、それは自分の存在を消すことで、人から苛めに遭わないようにしていただけのことだった。そのことを翔子は理解していたはずなのだが、理解はしていても、認めたくないという思いから、敢えて意識しないようにしていたのだった。
彼女は、どんな思いで苛めに遭っていたのだろう?
本人の気持ちを察すると、直接聞くわけにはいかない。しかし、聞いてみたいという思いも正直な思いで、聞くことで彼女との仲に亀裂が入るかも知れないという思いとの間に生じたジレンマを、翔子はしばらくどうしていいのか考え込んでいた。
「苛めって、一番何が辛いのかしら?」
翔子は呟くように言った。
彼女は少し寂しそうな顔になったが、それは翔子の言葉に反応したというよりも、寂しそうな表情が彼女の顔に染みついていて、何を考えているか、読みにくいところでもあった。
しかも、寂しい表情がデフォルトになってしまったということは、それだけ苛めが終わった今でも彼女に苛めの爪痕をしっかりと残している証拠ではないだろうか。
「そうですね。一番辛かったのは、苛めということよりも、まわりで傍観している人を見るのが辛かったですね」
と彼女は言った。
「傍観者の方が辛い?」
翔子は言葉の意味を理解できなかったので、正直に怪訝な表情をしていたことだろう。
その様子を見て、彼女の表情が少し変わった。それまでの寂しそうな表情に、どこか反抗心のようなものが感じられた。ただそれは、ない牙をあるかのように装いながら、こちらを睨みつける牙の折れたオオカミのようだった。虚しさが全体を支配しているにも関わらず、必死になっている様は、情けなくも移るが、その情けなさを少し怖いと感じる自分がいることを翔子は感じていた。
「ええ、傍観者って、苛める人と苛められている人以外の、その場にいるすべての人々のことなの。皆それぞれにリアクションが違っているの。あからさかにかわいそうだという表情をする人、見えているのに、見えないふりをしている人。自分がああならなくてよかったわと感じている人。それぞれなんだけど、結局皆、自分に火の粉が飛び散るのを怖がっているだけなの。恐怖の表情は、それぞれ隠しているんだけど、私から見ると、ハッキリと分かるのよ」
と、折れた牙をむき出しにするかのように、彼女は話した。
「そうなのね。私にはよく分からないけど、大変なのね」
というと、さらに彼女の眉間がピクピク動いているかのようだった。
「私は苛めがなくなってから、私を苛めていた人と、仲良くなったのよ。これって結構レアなことなのかも知れないけど、その時にその子から聞いた言葉が私には衝撃的だったわ」
と言った。
「どういうことなの?」
翔子は彼女が何を言いたいのか、よく分からなかった。
「その子たちは、傍観者の様子も分かっていたっていうの。それも、私が感じていたのと同じ意識だったんだって。でもよく考えればそうよね。苛めている方も、自分たちが苛めをしているという意識があったというのだから、当然のことなんだけど、それが苛めを受けていた私と正反対の立場にありながら、考えていたことが一緒だということに気が付いて、ひょっとすると、当事者の私たちの方が立場としては近くて、傍観者が遠い存在なんじゃないかって思ったの」
翔子は、まだ彼女が何を言いたいのか分からなかった。
少し考え込んでいると、
「あなたには分からないようね。要するに、苛める方と苛められる方は当事者として、それぞれにその場に責任があるの。でも、傍観者は責任がないのをいいことに、誰も止めることもなく、ただ黙っているだけ、つまりは、傍観者が一番罪深いということを私は言いたいの」
と、彼女は言った。
その言葉はさすがに翔子には衝撃だった。何も言い返すことができない。確かに翔子一人が傍観者の代表として叱責を受けることはないのだが、面と向かって苛められていた人に言われると、自分だけが叱責を受け、その責任を一身に受けなければいけないような気分になったからだ。
「別に私はあなたに何かをしてほしいと思っているわけじゃないの。もう苛め自体は終わったことなんですからね。でも、傍観者がどれだけ罪深いものなのかというのを知っておいてほしいと思ってるんですよ」
「どうして、私にそこまで?」
「翔子さんは、自分のことを素直だと思っているでしょう? 私はそれが許せないの。確かにあなたは、正直なのかも知れないけど、あなた自身、自分に正直なのかどうかというと、決してそんなことはないと思うの。素直だ、正直だというのであれば、少なくとも自分に正直であってほしいの。苛めを受けている時の私も、そして、苛めている方も、その時は自分に正直になりたいって思っていたのよね」
翔子は彼女に完全に圧倒されていた。
――何も言い返せない――
これが、翔子の本音だった。
「ねえ、翔子さん。あなたは私と仲良くなってくれたんだから、きっと私に対して何かを感じたから近づいてくれたのよね。私はそう思っているわ」
翔子は、彼女とどうして仲良くなったのか、最初の頃を思い出していた。
――そうだわ、彼女の中に、自分がいるような気がしたんだった――
と思い返してみた。
「私はあなたの中に、自分を見た気がしたのよ」
と正直にいうと、
「そうなのね。私もそんな感じじゃないかって思ったの」
「どうして分かったの?」
「だって、翔子さんの視線を感じた時、私も翔子さんを見つめていたの。だから、私は翔子さんから見つめられたという意識を持ったことがないのよ」
「そうなの? それは私も同じだった。でも、それがどうしてなのか分からなかった。今は最初にあなたと出会った時のことを思い出したから、分かったようなものなんだけどね」
と、翔子は自分の考えていることを相手も考えていたことが分かり、嬉しく感じた。
「私はさっき、翔子さんにとても厳しいことを言ったんだけど。それは翔子さんに本当の自分を分かってほしくて言ったのよ。私も翔子さんと仲良くなりたいという気持ちは同じなのよ」
彼女のその言葉を聞いて、翔子は救われた気がした。
「ありがとう。私もあなたともっと仲良くなりたいわ」
「そう言ってくれると嬉しい。翔子さんも以前はグループに所属していて、その中で端の方にいる自分を感じた時、我に返ったんでしょう?」
またしても、見透かされているのを感じた。
「ええ、そうだけど、どうしてそんなによく分かるの?」
作品名:オーロラとサッチャー効果 作家名:森本晃次