オーロラとサッチャー効果
本当はウワサなど、
――百害あって一理なし――
だと思っていた。
それなのに、こんなにうまくいくこともあると思うと、裏の世界にもひょっとすると利用価値のあるものがあるのかもしれないと感じていたのだ。
――裏の世界?
翔子は、いい意味ではないその言葉を聞いた時、最初に感じたのが、鏡の向こうの世界であった。
こちらの世界とまったく同じ行動しかしない鏡の向こうの世界だが、左右対称である。だが、不思議に感じるのは、上下対称ではないということだ。
――以前にも感じたことがあったような気がする――
と、鏡の世界に裏の世界を感じた時、上下対称をそんな風に感じた。
左右対称であるにもかかわらず、上下対称ではないことに、どうして誰も疑問に感じないのか不思議だった。
確かに上下対称だとものすごい違和感があり、絶対におかしな感覚を抱くはずだ。
そういえば、昔、サッチャー効果というのを聞いたことがあった。
「上から見た時と、下から見た時で、まったく違ったものに見えてしまうことを、サッチャー効果っていうらしいの」
と聞かされた。
「それって錯覚の類なの?」
「ええ、そうね。でも、それは錯覚を感じさせる人間の目に原因があるのか、私には分からないわ」
と言っていた。
――あの時、もっといろいろ調べてみればよかったわ――
と感じたが、サッチャー効果という言葉は頭の中に残っていて、
――ひょっとすると、何かのはずみに思い出して、調べてみようという気になるかも知れないわ――
と感じていた。
それがいつになるのかが分からないので、
――ひょっとして――
という感覚になったのだが、翔子としては、
――いつになるか分からないけど、やってくることは確定していることなんだわ――
と感じていた。
サッチャー効果の話は、高校時代に、学校から恒例の美術鑑賞の授業があったのだが、街の美術館に校外学習に行った時、その時サッチャー効果を思わせる絵があったのを思い出した。翔子はその時その絵の前からしばし離れることができなかった。ただ、その絵がサッチャー効果だったのかどうか、何も書かれていなかったので分からなかった。後になってから余計に気になって、
――どうしてあの時、聞かなかったのかしら?
と感じたほどだった。
――そういえば、サッチャー効果の話、他の時にも聞いたことがあったような気がするわ――
と感じたが、それがいつのことだったのか思い出せなかった。
ただ、高校時代の美術鑑賞よりも後だったような気はする。それなのに、どうして思い出せないのか、不思議だった。
いろいろなことが頭の中を走馬灯のように駆け巡っていたのだが、その場が田村と一緒に行った居酒屋であるということすら、意識として感じているわけではなかった。
「新宮さん、大丈夫ですか?」
と、田村に声を掛けられて、初めて意識が上の空になっていることに気がついた。
「ああ、ごめんなさい。なぜかいろいろなことが頭を巡ってきて、上の空になってしまったようなのよ。いったい私はどれくらいの間、ボーっとしていたのかしら?」
と彼に聞いてみた。すると、
「そうですね。十分くらいのものだったでしょうか? もっと早く声を掛けようかと思ったんですが、あなたを見ていると、そのうちに戻ってくるような気がしたんですよ」
その言葉に少し訝しさを感じた翔子は、
「戻ってくるというと?」
「あなたが、頭の中で発想を膨らませていることは分かっていました。それが次第に妄想のようになってきていたので、頭の中が混乱しているのかと思ったんですが、そんな表情ではなかった。頭の中で迷走しているように感じたんですが、いずれは戻ってくると思ったんです。ただ、戻ってくる相手を途中で遮ってしまうと、本来戻ってくるはずの道が閉ざされてしまって、もう一度同じ状況になると、元に戻ってこれないような気がしたので、黙っていたんです」
「じゃあ、また同じように迷走することがあると?」
「ええ、僕はあなたのように話をしていて迷走している人を今までに知っています。その人も何度か同じように迷走を繰り返していたようなんですよ」
「それは、まるで夢遊病のような感じなんですか?」
「少し違うだけど、同じようなものだと思ってもらった方がいいかも知れませんね」
「どう違うんですか?」
「夢遊病というと、いつも同じ夢を見ているわけではないんですよ。しかも、迷走しているわけでもない。どちらかというと、夢遊病の場合は気になっていることを確かめるために起こることが多いって僕は思っているんですよ。だから、時と場合によって違ってくることなんじゃないですか?」
「じゃあ、今の私の症状は夢遊病とは違っているわけではないんですか?」
「そうですね。少なくともあなたは睡眠状態だったわけではないでしょう? それに夢遊病に陥る時の原因の一つとして言われていることは、興奮状態のまま睡眠に至った時と言われています。今のあなたは少なくとも冷静だったし、興奮状態ではなかった。むしろ冷静だからこそ、意識の中で迷走していたんじゃないかって思うんですよ」
「というと?」
「何かを考えていて、発想が膨らんでいる時というのは、考えていることに対して余裕がなければ、発想が膨らむことなどないんじゃないかな? 余裕がない時は、堂々巡りを繰り返してしまって、自分では迷走しているつもりでも、いつの間にか同じところに戻ってきているという状況ですね」
「それは、時間を飛び越えて、元の位置に戻ってくるという発想ではなくて?」
「ええ、新宮さんもなかなか面白い発想をなされる。確かに時間を飛び越えて同じところに戻ってくるという発想は、堂々巡りに近いかも知れないけど、時間を飛び越えるというのはワープのような発想であって、決して同じところに戻ってくるわけではないと僕は思うんです」
「なるほど、確かにそうかも知れませんね。私は今の話を聞いて『慣性の法則』を思い出したんですが、走っている電車の中で飛び上がっても、電車の中という空間の中で着地することになるので、全体から見ると、決して同じ場所に着地しているわけではないからですね」
「まさしくその通りです。僕が時間を飛び越えるという発想が、同じところに戻ってこないという理屈を説明する時に使うのも、この事例なんです。よく思いつきましたね」
「ええ、この法則はいつも疑問に思っていて、気がつけば、そのことを気にしている自分がいるんですよ。田村さんの話を聞いていると、私もいろいろ思い浮かぶことがあるようで、どこか私たち、似ているところがあるのかも知れませんね」
と言って、翔子は微笑んだ。
田村も同じように微笑んでいるが、まだ親近感を感じさせる笑顔ではない。かと言って、何かを疑っているような雰囲気でもなく、さらには探りを入れている様子も感じられなかった。
「何となくタイムマシンの発想のようですけど、新宮さんはタイムマシンについてどう思います?」
「タイムマシンというのは、本当に開発できるものなのかって、疑問しかないです」
「どうしてですか?」
作品名:オーロラとサッチャー効果 作家名:森本晃次