オーロラとサッチャー効果
電車に乗っても、お互いに無口なままだった。他の人が見れば誰がこの二人をカップルだと思うだろう。
二人は、電車の四人がけの対面式の席に座った。窓際にはもう一人のカップルがいて、満員になりかかっている電車に、カップルが対面するように座っていたのだ。
彼の隣には、もう一組のカップルの女性側がいて、翔子の隣に、彼氏がいた。どうしてそんな座り方になったのか、彼が最初に自分から座ったので、理由は分からないが、ひょっとすると相手の男と視線が合うのを避けたのかも知れない。
翔子もその方がいいと思った。彼との会話が弾まない以上、目のやり場に困ってしまうだろう。それは彼も同じことで、彼の方からこのような座り方をしてくれたことに、感謝したくらいだった。
窓際のカップルはそれなりに会話をしていた。男性のほうから一方的に話をしていて、彼女はどうやら、おしとやかな女性のようだ。だが、それが引っ込み思案なのではないかと思わせる事件がその後すぐに起きたのだ。
二人の会話から、二人が自分たちよりも先に下りることは分かっていた。もう一組の男性の方が、次第に何かに苛立ちを覚えているのを、翔子は何となく気付いていた。なぜなら、この男性が小刻みに震えていたからだ。
最初は貧乏ゆすりなのかと思ったが、どうもそうではない。貧乏ゆすりなら無意識なのだろうが、彼の震えが会話が途切れると止まってしまうことで貧乏ゆすりではないと感じた。
――会話している時震えが止まっているなら、貧乏ゆすりだって思うんだけどな――
翔子にとっては、ただの思い込みだったのかも知れないが、的を得ていたようだった。
そろそろ降りる駅が近づいてきたのか、窓際の男性が立ち上がった。そして翔子を避けるように小声で、
「すみません」
と言って、通路に出た。
それを見ていた彼女の方もゆっくりと立ち上がろうとした時、彼のお尻の下に彼女のスカートが引っかかっていたのか、彼は気付いていないのか、腰を浮かそうとしなかった。
「おい、お前」
通路に出た男性が、彼に向かってそう詰め寄る。
「どういうつもりなんだ。ちゃんと腰を浮かせて、出れるようにせんか。席を立つのが礼儀ではないか」
と言って、ここぞとばかりの罵声を浴びせた。
――この人の苛立ちはここにあったんだ――
と翔子は感じた。
――彼が自分の彼女のスカートを尻に敷いているのを知りながら、何もしなかったことに苛立っているんだわ。それにしても、この怒りは何?
と思わせるほどの厳しさに、翔子はこのオトコの彼女に対するパフォーマンスではないかと感じた。
それは上から目線の片鱗を、翔子が見せたこともあるが、他人事のように見ていると、意外と当事者としてでは感じることのできない思いが見えてくるものだった。
オトコとして、自分の彼女に、
――いいかっこ――
を見せるというのは、彼女を持った男としては当然の心境ではないかと思うが、このやり方は、少し強引すぎるのではないか。
いや、少しなんてものではない。露骨な姿勢は、却って卑劣さを露呈させることになり、―-自分が彼女なら、こんなオトコと付き合うなどありえない――
と、翔子は考えた。
このオトコのやっていることは完全に「因縁」である。言いがかりにもほどがあるのだが、自分の彼氏は、何とかその状況に耐えようとしているのが見て取れた。
――彼にも、このオトコの本性が分かっているに違いない――
横から見ている翔子に分かるのだから、正面切って見ている彼に分からないはずがない。余計に腹が立つのも分かるというものだ。
必死に耐えている彼の表情は完全に引きつっている。見ていて気の毒だが、今の翔子に何ができるというのか、声を掛けられる雰囲気でもないことは歴然としているからだ。
――それにしても、こんなにも露骨で陰湿なオトコが存在していたなんて――
翔子は、彼女の方を見ていた。
彼女は彼の影に隠れて、怯えている様子を見せていた。
――どういうことなのかしら?
翔子は、露骨なこのオトコよりも、彼女の方に興味を持った。
――本当なら、彼をなだめようとするのが本当だろうが、彼のこの露骨さに手を出せないというのも分かる気がする。でも、彼女は怯えているのだ。何に怯えているというのだろう?
オトコが自分のために怒ってくれているのは彼女としては当然分かっていて、何とかしたいと思っているのだとすれば、怯えに走るというのはおかしなことだ。
しかも、彼女のその様子も露骨に見える。彼が正面に立って、露骨にカッコウつけているから彼女は目立たないだけだが、もし翔子のように彼女に注目する人がいるとすれば、彼女の様子に矛盾を感じる人が他にもいるのではないかと思えた。
――矛盾?
それは、彼女が何に対して怯えているかということに対する矛盾である。
彼女としては、ここまで露骨に彼に自分のためということで怒りをあらわにされれば、自意識の高い女性であれば、このオトコに対して自分が優位性のあることを前面に出し、怯えなど表に出すことはないだろう。
彼の影に隠れて、目立たないようにしているのであれば分かる。それは彼女の女としての本性が現れているからだ。男を前面に出すことで、自分は彼の影に隠れて、自分の自尊心を守ってもらえるからである。
しかし、怯えが表に出ているというのは、きっと、オトコに彼女の怯えが伝わっていると考えてもいいだろう。彼女の態度が彼のオトコとしての自尊心をくすぐり、まるで自分がヒーローにでもなったかのような錯覚を与えるテクニックだとすれば、何と末恐ろしい女だといえるのではないか。
女の態度がまるで捨てられた猫が雨に濡れ手、洗いざらしのようになっているのを自分が救っているという男の自尊心である。
しかも、彼女の中で、
――このオトコなら、簡単に自尊心をくすぐることができるわ――
という理由から、彼氏に選んだのだと思えば、さらに魔性の女だといえるだろう。
魔性の女というのは話には聞いたことがあるが、どんな女なのかよく分からなかったが、人を隠れ蓑にして、自分の自尊心を、相手の自尊心をくすぐることで現実化させ、自らの思いを成就させようという女のことなのだと思った翔子だった。
ということは、この場面で一番割りの合わない状況に置かれているのは、翔子の彼氏である。
相手のカップルの自作自演に近い演技に踊らされ、我を忘れかけているのだから、たまったものではないだろう。
当然、頭には血が昇ってしまっていて、自制心を持つことなどできなくなっているだろう。自分をコントロールできずにどのように振り上げた矛を収めるようとするのか、翔子はハラハラしていた。
彼の引きつった顔を見ながら、相手の男は満足そうな顔になっていた。
女の方は相変わらず男にしがみつき、怯えの様子をあらわにしている。
翔子は、同じ女として、
――こんな女が存在するから、女というのが魔性だって言われるのよ――
と思った。
作品名:オーロラとサッチャー効果 作家名:森本晃次