オーロラとサッチャー効果
今でも中学時代の夢を時々見るが、その夢で皆は中学生なのに、自分だけが就職していたり、逆に皆が社会人なのに、自分だけが中学生だという夢である。
どちらも見たという意識はあるが、どちらも自分を納得させようとしていることで、思い出すことができるのだと思うと、おかしな意識ではあるが、思い出してしまった時、感慨深いものがあった。
自分が中学生で、まわりが社会人になっているという意識は、今の夢を見ていて、夢の中で昔を顧みていると感じるが、逆に自分が社会人で、まわりが中学生の場合は、中学時代の夢を見ていて、将来を想像しているように感じるのだ。
翔子派夢に対して不思議な感覚を持ち続けていることで、時系列に対しても感覚がマヒしているように思えた。
この日の夢は、時系列が関係しているわけではないと思えたが、
――どこかで見た光景だ――
と感じた。
どこかで見ることなどできるはずもない光景なのに、そんな風に感じたのは、
――夢に対して感覚がマヒしているからではないか?
と感じたことと同時に、実は、
――夢と時系列は切っても切り離せない関係にあるのではないか?
と感じたことの両方だった。
翔子が見たその夢は、何とも綺麗な光景で、本当であれば、
――こんな綺麗な光景、初めて見たわ――
と感じさせることだった。
見上げた空は真っ黒に最初は感じたが、次第に一箇所から紫に見える箇所が見つかると、次第にスターダストのような白い星の屑が降ってくるのを感じた。
「綺麗だわ」
と、声に出した気がした。
夢の中で声を出しても聞こえるはずないので、意識が教えてくれたのだろう。その光景に感謝するべきなのかも知れない。
スターダストの向こうにさらに紫色が広がってくる。その広がりは、まるで天女の羽衣を思わせるもので、空がまるで生きているかのように棚引いている姿は、七夕の天の川を思わせるものだった。
――まさにミルキーウェイだわ――
天の川は英語でミルキーウェイという。
だが、実際に見えている紫は天の川よりもさらに棚引いていて、本当に生きているかのようだ。
「オーロラだわ」
と最初に感じたのは、夢を見始めてから、かなり経ってからのことだっただろう。
しかし、さらに時間が経てば、
――オーロラを感じたのは、最初からだったような気がするわ――
と思うようになった。
その時になって、
――初めて見たはずなのに、以前にもどこかで見たことがあったような――
まるでデジャブである。
しかし、オーロラなんて、北海道でもまず見ることができないものだ。翔子は北海道はおろか、青森にも行ったことがない。それなのに、オーロラを見るなどありえない。もし意識に残っているとすれば、それはどこかでオーロラの写真が絵を見た時の記憶が残っていたからであろうが、思い出すことができない。その思いが、夢の中だという意識とあいまって、
――時系列がマヒしているんだわ――
と感じさせるに至るのだ。
――夢が堂々巡りを繰り返していると感じたことが、オーロラを意識させたのかも知れない――
と翔子は感じた。
堂々巡りと、オーロラとは一見結びつかないように感じるが、そのどちらかを歩み寄らせるのではなく、どちらも歩み寄らせることによって、妥協点を見つけるという発想を翔子は思い浮かべていた。
オーロラは実際に見たことがないので、あくまでも想像でしかないが、翔子の中のオーロラは、天女の羽衣のように薄い膜が、天から垂れ下がっている雰囲気であった。それは七色の羽衣で、あたかも虹を思わせるイメージだ。
――いや、オーロラのように横文字を使うのであれば、レインボーというべきなのかも知れないわ――
と思うことで、羽衣には膜の中が幾層にも重なって見えるものがあるのを感じていた。
そこから思い浮かべる発想として、幾重にも重なったものという感覚を重視すると、
――まるで、木を裁断した時に見る年輪のようだわ――
長い年月をかけて、時系列に、しかも決まった一定期間に刻まれる年輪。オーロラがどれだけの数があるのかは分からないが、いくつも発生しているのを感じた。
さらにオーロラも、見る角度によって、その見え方が違っている気がした。年輪と言うのも、光が当たっている場所だけ発育がいいので、幅が広がっている。こちらも見る方向によって変わってくることで、オーロラの発想が年輪の発想と結びついてくるのは頷けるというものだ。
では、堂々巡りの方はどうであろうか。
翔子が堂々巡りを思い浮かべると、そこの感じられるのは袋小路のようなものだった。袋小路は、迷路に繋がる発想があり、どちらに行けばいいのかで、すべてが決まる。一度迷い込んでしまって、頭がパニックになってしまうと、自分が来た道すら分からなくなってしまうだろう。
自分がいったいどこにいるのかも分からないそんな場所で、前も後ろも分からない。そんな状況になった時、太陽や星と言った、空を思い浮かべることだろう。
――あんなに空は広いのに、自分はこんなに狭いところを行ったり来たり、いったいどうすればいいのか――
と途方に暮れるに違いない。
――このまま死にたくはない――
迷い込んだ迷路は、死への列車が動き出した感じだ。
乗りたくもない列車に乗せられて、どうして死ななければいけないのか、そう思うに違いない。
だが、本当に迷路には、
――迷い込んだ――
のであろうか?
自分が無意識の中で死というものを受け入れる感覚になってしまったことで、何かの力が働いて、死への列車を動かしたのではないだろうか?
――自殺?
そう思った時、最初に思い浮かんだのは、富士の樹海だった。
自殺の名所として知られるその場所は、慣れた人でも入ることができないというほどのところで、迷い込んだら出てこれないという。
しかし、冷静に考えれば、
――空から見れば大丈夫なんじゃないかしら?
と思ったが、そうも簡単にはいかないようだ。
どうやら、樹海というところは、コンパスも地図も役に立たない。地図など最初からあるはずもなく、頼れるものは、方向を表す方位磁石くらいのものだ。
だが、それが役に立たないのだとすれば、あとは自然の力だけである。天体に広がった星の位置で方位を知るしかないのだろうが、ただ、考えてみれば、樹海に入り込んで迷った時点で、自分がどこにいるのか分からない。どう動けばいいのかが分からないはずだ。
それよりも、もっと基本的なことは、夜しか星は出ていないので、夜にしか動くことはできない。夜が明けてから日が差してくると、それこそ、移動した分、さらにどこにいるのか分からないだろう。
翔子はそんなことを一人考えていると、思わず吹き出してしまった。
――これこそ堂々巡りの発想だわ――
と感じたからだ。
ただ、樹海とは森になっているので、年輪を見れば、方位も分かるかも知れない。かなり薄い発想だが、できないことでもない。いきなり年輪の発想になった時、翔子はオーロラを思い浮かべた。ただ一瞬のことだったが、思い浮かべたオーロラのイメージが、夢に見たオーロラの原点になっているのは間違いのないことだった。
作品名:オーロラとサッチャー効果 作家名:森本晃次