オーロラとサッチャー効果
この間見た夢では、大きな箱庭が机の上に置いてあり、そこには本当に人が生活しているエリアがあった。小人がまるで虫のように群がっているのが見えたが、それは普通の人間だった。
いかにも夢だと感じさせる光景で、
――夢なんだから、何でもできる――
とさえ思えた。
実際の夢はそんなにうまくいくわけもなく、そのことは自分が一番よく分かっていると思っていた。
夢だからといって、何でもできるわけではない。
たとえば、
「夢の中なんだから、空だって飛べるだろう」
と考えていたとする
しかし、実際には空を飛ぶことなどできるはずもなく、地面から腰あたりまで浮くのが精一杯で、自由に動くこともできず、まるで空という海の中を抵抗を感じながら動くだけしかできない。
――夢とは潜在意識が見せるもの――
という大前提が頭の中にあるからだ。
翔子は、実際に空を飛ぼうとした夢を見たのを覚えている。その時に腰の辺りで浮きながらもがいていたのを覚えている。
夢を覚えているということは、少なくともいい夢ではなかったことは確かだ。今までの覚えている夢というのは、かなりの確率で、怖い夢だったのは間違いないからだ。
その時に見た箱庭も、夢であるということを感じたと同時に、
――怖い夢なんだ――
とほぼ同時に感じたことだろう。
怖いという前提の下に箱庭を見ると、その景色は不気味以外の何ものでもない。ただ、不気味さは夢の中では当たり前のことであり、自分の発想が潜在意識の中でしかありえないことが分かっているので、その怖さはホラーのようなものとは違っている。
精神的な面でも怖さであり、
――どうしてこんな夢を見るんだろう?
という潜在意識を疑ってみることが第一だった。
ただ、夢の中でそこまでハッキリと意識できているものであろうか?
夢を覚えているというのは、夢の中で意識できなかったことを、目が覚めるにしたがって、忘れる前に付加価値をつけることで、夢を忘れらさせないようにしていると考えると、何となくではあるが、辻褄は遭ってくる。
つまり、夢の中で見た夢は、目が覚めるにしたがって、すべてを忘れようとしているのだ。
しかし、その中でも怖い夢に限っては、怖いまま潜在意識の中に収めるのが怖かった。何かの理由をつけて、怖さを緩和し、再度潜在意識の中に格納しないと、また同じ怖い夢を見てしまうという意識が働くからだ。
そのため、何とか理由をつけるため、現実世界に意識が戻る前に、夢を顧みることで、いかなる理由をつけて、夢を正当化しようと思うのかを考えた。
ここでいう正当化というのは、
――自分を納得させる――
ということであり、自分が納得できれば、その場は収まる。
再度潜在意識に格納された時、最初に思っていた疑問は完全にとはいかないが、少なくとも自分で納得がいけるほどまでには回復しているに違いない。そう思うことで、怖い夢を怖くない夢として再度見せることに成功するに違いない。
考えてみれば、夢の続きなど見たことがない。怖くない夢というのは、意識としては、
――ちょうどいいところで終わってしまった――
と、まるで次週に続く連続ドラマのその日のラストシーンのようではないか。
翌週への期待を膨らませたまま終わることで、翌週に期待させる。夢も同じようなものなのかも知れない。
だが、いい夢に限って、その続きを見ることができない。本当であろうか?
翔子はいい夢を期待を煽るところfr終わっているという意識を持ったことで、
――二度と夢の続きなんか見ることができない――
と感じた。
なぜなら、いいところで終わったという意識はあるが、肝心の夢がどんなものだったのか、夢から覚めると忘れているではないか。そんな状態で続きを見たとしても、これがいつの続きだったのかなど、本当に結びつくのかが疑問である。
だが、目が覚めるにしたがって忘れていくのではなく、自分を納得させようとして記憶を改ざんしているのであれば、話は別である。
ちょうどいいところで終わってしまえば、何とも消化不良の状態になってしまうことで、目が覚めるまでの間に自分を納得させようと、その続きを自分なりに想像で描いてしまうと考えると、夢を忘れてしまうという意識も分からなくもない。それは、
――夢を改ざんしてしまったことで、夢の続きを見ることができない――
という意識が働いたことによるのだろう。
そう考えると、夢というのは、何と不思議なものなのだろう?
翔子は最近夢に対して、
――夢って、生き物なんじゃないかしら?
と考えている。
ただ、それはすべてを自分が凌駕できるだけのものであり、完全に限界のあるものだと思うと、果てしないものではないと考えれば、想像以上に身近なものだという解釈もできる。
夢を忘れてしまうのは、そんな身近な感覚だと思うことを、自分が否定しようと考えているからなのかも知れない。
現実世界とは隔絶した世界であることは誰もが認めるものだが、そこに限界があり、どこまで行っても自分の範疇であると思ってしまうと、夢を舐めてしまう感覚になるのを自らが抑えているのではないだろうか。
自分を納得させる夢の考え方をしようとすると、どうしても、こういう考え方になってしまう。あくまでも自分中心に考えた自分だけの考えである。だから、人には話せない。皆が夢と呼んでいることは、翔子が感じている夢と同じものなのだろうか? 夢の中で自分の知っている人が出てきたとしても、その人と普通に会話しているという意識はない。もっともそれは、夢から覚めて感じることで、ほとんど忘れてしまった後のことであるから、意識が朦朧とした状態と同じ中での感覚に、信憑性などないのかも知れない。
翔子は、箱庭の中にいる人の中に自分がいるのを分かっていた。ただ、あまりにも小さいので自分を発見することはできない。だが、意識の奥では、自分が空から誰かに見られているという意識も持っていた。だから、箱庭の中に自分がいるのを意識できたのだ。
――夢なんだから何でもできる――
この思いは、起きている時に感じるものではなく、夢の中だけで感じるものだ。
夢の世界にいる自分をそれが夢だと分かっていないと、夢の中では何も意識できないと翔子は感じていた。
箱庭の中にいる自分が夢を見ている自分で、表から見ているのは、現実世界の自分だと感じていた。
それが自分を納得させることだったのだが、その際に感じた矛盾は、夢から覚めて、かなり後になって思い出される。
――そういえば、箱庭を見た夢を見たことがあったっけ――
と、何の前兆もなく、急に夢のことを思い出すことがあるが、それが夢の中で発生した矛盾を思い出す時であった。
前兆もなく、唐突だからこそ、信憑性がある。翔子はそう思うと、
――思い出したこと自体、夢を見ている証拠ではないか?
と感じた。
そして、案の定、気がつけば目が覚めた場面である。
それは、
――夢が堂々巡りを繰り返している証拠なんじゃないかな?
夢には時系列など関係ない。
――これって、過去の夢だよね?
と自分で思っても、果たしてそうなのか、自分でも自信がない時がある。
作品名:オーロラとサッチャー効果 作家名:森本晃次