短編集41(過去作品)
だが、不思議なことに、車窓からの風景が初めて見るものではないような気がして仕方がなかった。どうしてそんな気分になるのか分からないが、それが電車に乗っている時間を長く感じさせる要因になっていることには違いない。
水平線の最先端が見えてくるような気がする。そう感じながらじっと見ているから、時間を長く感じているにもかかわらず、同じところをじっと見つめているのかも知れない。
――一体何を考えていたのだろう――
水平線を見ながら何かを考えていたことに気付くと、考えていたことを忘れてしまった。今までにもよくあることだが、目が覚めている時に見ていた夢を覚えていないのと同じような感じである。
――あまり気持ちいいものじゃないな。でもまあいいか、きっとそのうちに思い出すこともあるだろう――
思い出した時に、果たして今感じたことを思い出したと思い、すっきりするかどうかは疑問だが、今ここで気を揉むことではない。目の前に広がっている光景を素直に感じることが旅行の醍醐味だということは分かっている。
特急電車の中とは打って変わって、完全に二人とも無口になってしまった。特急電車の中では釣りの話に花が咲いていたが、今は目の前に広がる海を見ていれば、釣りの話題などしなくとも、勝手にいろいろな想像ができるというものである。お互いにそれでいいのだ。
宿に到着する頃には夕日は水平線の彼方に沈んでいた。あまり綺麗な宿ではなく、少しがっかりしたが、それも一瞬だった。民宿のようなところで、潮の香りが染み付いた雰囲気は考えるまでもなく情緒溢れる風流なところだ。
「まさかホテルみたいなところを想像していたわけではあるまい?」
「もちろんそうだけど、でも、民宿って泊まるのは初めてなんだ」
「この宿には前にも何度か泊まったことがあるけど、料理は最高だよ。何しろ海の幸が目の前に広がっているからね。それこそ産地直送というより、産地直だよ」
温泉に浸かりながら話してくれた。
ここの温泉は露天風呂で、今まで温泉に行ったことはあっても露天風呂は初めての達男には煌く星空を見ながら湯に浸かるという新鮮さを堪能していた。
「不思議だよね」
「何が?」
「露天風呂って開けているわけじゃない。それなのに、声が室内の温泉みたいに篭って聞こえる。僕の想像を超えているように思うんだ」
「それが田舎の空気というものだよ。それにここの温泉は声の通りが他の温泉よりもいいみたいなんだ。だから声が響くんだよ」
「そんなものなんだね」
見るもの聞くものが初めてで、すべてが新鮮に感じられる旅になることを予感させられた。今回の旅の目的はそこにもある。
新鮮さを感じながら、その日は早めに床に着いた。大人だったら、お酒でも呑んで眠るのだろうが未成年なのでそうも行かない。
――大人になって来た時は、絶対にお酒を呑んで眠りたいな――
そう感じながら眠りに就いた。
朝の目覚めは悪くなかった。少し寒さを感じたが、普段に比べて目が覚める時間が早いので、あまり気にならなかった。
夢を見ていたかも知れない。内容が思い出せないのだ。だが、目覚めた時に自分がどこにいるか分からない感覚は、きっと夢の中で温泉に来ているという感覚がなかったからに違いない。もし旅に出ている感覚を持っていたのなら、悪くなかった目覚めなのに、
――せっかくのいい目覚めなのに――
という後悔にも似た思いをすることはなかったはずだ。
早朝の冷え込みは想像していたよりもすごいものだった。楽しみにしていた釣りに行く気分が萎えてしまうほどだったが、さすがに慣れているのか、裕也の表情からそんな雰囲気はまったく感じられない。
「寒さにビックリしているようだね」
「うん、少しね」
痩せ我慢をすればいいのだろうが、したところで裕也には分かっているはずだ。もっとも正直な気持ちが顔に出るところを裕也も気に入ってくれているらしく、
「君と一緒にいると安心できるんだ」
以前話してくれた言葉を思い出した。
用意は前日のうちからしておいたので、後は着替えて目を覚ますだけだった。これだけ寒いと、それが一番辛い。最初に布団から出る勇気がありさえすれば、後は乗り切れることは分かっていた。
それが達男の性格でもあった。最初が肝心だということを分かっている時に限って、最初の一歩を躊躇ってしまう。
――勇気がないのかな――
と感じたこともあったが、元々石橋を叩いて渡る性格なので、最初の一歩に慎重になっているだけなのかも知れない。
「結果なんて後からついてくるものさ」
と嘯く連中もいるが、どうしてもそんなに楽天的な性格になれない自分を振り返り、
――事業家にはなれないな――
苦笑いをしている顔が頭の中に浮かび上がってくる。
性格的に人を二つに分けるとすれば、芸術家タイプと事業家タイプに分けることができると達男は考えていた。石橋を叩いて渡る性格の芸術家、思い立ったこと、第一印象を信じて突っ走る事業家タイプ、一口で分けるのは危険極まりないが、あくまでも大きく分けて考えるとそういう風に思うのだった。
達男は芸術家タイプ、冒険のできない方だと思っているが、時々怖くなる。石橋を叩いて渡っていることに疑問を持っていない時はいいのだが、ふと立ち止まって疑問を感じてしまうと、急に開き直りの気持ちが強くなると思うことである。
考えるよりも先に行動を起こしてしまって、それが大きな失敗を生んでしまうのではないかということを時々感じているが、そんな時に鬱状態に陥る寸前であることを感じる。
鬱状態に陥ると、自分ではなくなってしまう。自分の目で見ているものなのに、そのすべてが信じられなくなってみたり、逆にその時見えているものがすべて真実で、普段のすべてがウソではないかと思う。むしろ後者の方が恐ろしく、必ず抜けることができるはずの鬱状態のはずなのに、後者を考えると、鬱から抜けるのすら怖くなる。一体自分がどこにいるか分からない状態になってしまうのである。
ベテランパイロットが今まで信じていたはずの計器類すべてが信じられなくなることがあるらしいが、そんな話を思い出す。ベテランであればあるほど陥りやすい。自分を信じていれば信じているほど信じられなくなった時のギャップが大きいということなのだ。
「ここが一番釣れるんだ」
といって連れてきてもらった磯の上、断崖絶壁になっている。下を覗くと恐ろしく、吹いてくる風に逆らうことはできない。
「まさかいきなりここで?」
「まさか、そんなことはしないさ。だけど、ここの風景は覚えておいた方がいい。僕はここに来るといろいろなことを考えるんだ。というよりも、毎回来るたびに違うものに見えるような気がするとでも言うべきかな?」
達男にもそんなところがないわけではない。毎日同じ通学路を通っていて、普段と変わらない景色がまるで凍りついたように見えている。それが当然のように受け止めていたが、時々、
――この道って、こんなに長かったかな――
作品名:短編集41(過去作品) 作家名:森本晃次