短編集41(過去作品)
まるで自分のことのように恐ろしくなって注意しているのだが、声になっていない。目の前から消えないでほしいという願いを込めながら、カッと目を見開いているが、それにも限度がある。瞬きする瞬間にはすでに目の前から消えていた。
竹下はその場に座り込んでしまった。まさにへなへなと崩れるようにである。
目の前にいたはずの人がいなくなったのが恐ろしいのか、それともいなくなったということは、断崖から落ちたことを示しているのを分かっていて、それが恐ろしいのか、自分でも分からない。
――断崖から落ちる可能性は限りなく高い――
という意識があるのは間違いないことだ。
しかし、一瞬しか見えなかった女性が静子であると断言できる。いや、静子の顔しか浮かんでこないのだ。
――止めなければいけない――
と心の中で叫びながら、
――静子なら断崖から落ちるのを止める方がかわいそうな気がする――
と思うのも正直な気持ちである。
静子は賢い女である。断崖のそばにいれば落ちるのは分かっていて、それでもその場にいるのだから、それなりの覚悟の元であるはずだ。
――覚悟を決めている人、それを救うにはそれなりの保障がいるのではないか――
と、目の前で人が飛び込もうとしている段階で、よくそこまで冷静に考えられるものだ。これが静子でなかったら止めていただろう。
――いや、まったく知らない人だったらどうだろう? 止めていただろうか――
止めないように思う。それこそ止めて恨まれるということもあるからだ。
冷めた考えなのだろうか? 中には止めてほしいと考えている人もいるだろう。だが、その瞬間に立ち会えば止めるだけの気持ちがあるかどうか分からない。本能で動いて止めるかも知れないが、決してそれは自分の意志からではない。特に静子なら、
「止めないで」
というに決まっている。彼女は決して無理なことはしない女だった。冷静に計算をしている人が、命を博打のように掛ける真似をするはずがない。
静子が夢に出てくるシチュエーションはいつも同じだった。それでいて、いつも考えていることは同じなのだ。ひょっとして違う反応を見せれば、もう二度と静子の夢を見ることもないだろう。
――それも寂しいかな――
一体どっちなのかと迷っていると、やっぱり夢に見てしまう。
――静子と夢を共有しているのではないか――
などと考えるのは、自分本位の考えかも知れない。
――自信過剰なくらいの方が自分らしい――
一つのことに集中すると、他のことが見えなくなってくる。トラブルなどが起きたりすると頭の中は真っ白、焦りから胸の鼓動だけしか聞こえてこないくらいになってしまう。
――きっと自分に自信が持てないからだ――
自分のまわりの人は皆自分よりも優れていると思っている。それは自分が謙虚だからではない。本当に自分に自信がないからだ。
「嘘でもいいから、一度自分に自信を持ってみれば違うさ」
と人からは言われていたが、嘘で自信を持つにしても、根拠となるものがなかった。根拠がなければ自信が持てないのは竹下の性格から来るものだ。基本的にはコツコツタイプであるため、土台がしっかりしていないと、自分を顧みることすら怖いのだ。
自分のまわりにいる人から尊敬はおろか、意見に同意されることもない。そう感じるので、自分の意見をまわりに言うこともなければ、本当に自分の意見が固まっているのかも怪しいものだった。
しかし自信過剰はいいことばかりではない。自信過剰になってくると独占欲が強くなり、相手を支配したくなるのも無理のないことだった。独占欲が強くなるくせに、自分は他の女性にも目が行ってしまっても、悪気がないのだ。理性が麻痺してしまっているのかも知れない。
また自信過剰になると、自分を客観的に見ることもある。第三者として見ている分には気が楽だということを無意識に分かっているのだ。
「そんなことは当たり前じゃないか。第三者として傍観している方が気が楽さ」
と言われるが、自分に自信のなかった頃には、一つのことに集中するとまわりが見えなくなるほど余裕がない状態で、傍観などできるはずもない。
竹下は綾子を自分の手で支配してみたくなった。
――以前にも同じような思いをしたことがあったな――
どうしてなのだろう? 今までにそんな気持ちの余裕などあるはずもなかったのに、誰かを支配したいと感じ、支配できていたような気がするのだ。だが、それを思い出すということは以前に付き合った女性で自分に従順だった人がいたということだろう。
よくよく思い出せば小学生の頃、最初に好きになった女の子がそんな感じだった。大人しい子で、いつも自分の後ろをついてくるような子だった。
ごく当たり前のこととして一緒にいたが、彼女はどう感じていたのだろう。
自分が従順だと感じていたのだろうか?
感じていなかったように思うのは男のエゴかも知れない。だが、今までに何度か同じような思いがあるということは、竹下自身、好きになる女性のタイプが一定していて、自分に従順そうに見える人ばかりを選んでいたに違いない。そのことに気付いていなかったのだが、無理に意識しないようにしていただけのようにも思える。
――男を好きになれば、女性は綺麗になる――
と言われるが。竹下が今まで付き合ってきた女性すべてに言えることだったように思える。綾子も例外ではない。それだけに、独占欲も沸いてくるというものだ。
綺麗になっていく女性を見ていて男は自分が男であることを知る。相手を心身ともに知り尽くし、相手にも自分を分からせる。
――分かってもらうというよりも分からせるのだ――
その時に初めて自分が追いかけるタイプではなく、追いかけられるタイプであることを知る。
しかし、追いかける方が気は楽だということを知らないでいた。普通に歩いていれば当たり前のことなのに、相手が女性であれば追いかけられる方が嬉しいに決まっているという固定観念があったからだ。自分に自信のない頃の名残りとしてしか感じていないが、自分が追いかけられる立場になれば、女性に対しての感覚が麻痺してくるようである。
竹下の子供時代、思い出したくもなかった。思い出すこともあまりなく、何よりも友達と一緒にいることのない協調性のない子供だった。
しかし最近は、住んでいた場所をよく思い出す。気持ちにゆとりが出てきたからだと思っていたが、自分が女性から追いかけられるような男性だと思うことで、余裕を感じていたのかも知れない。
学校までの道のりをよく思い出す。住んでいたあたりは、前が海、すぐ後ろには山が迫っているような街である。山間にいけばいくほど大きな家が多く、海辺などは貧しい木造家屋が軒を連ねていた。これほど貧富に激しさがあるなど、離れてみて初めて分かった。それまでは、それが当たり前だと思っていたのだ。
学校からの帰り道、目の前に広がる景色も当たり前、綺麗だと言われてもピンと来ない。そこで生まれてそこで育ち、平凡な毎日が当たり前になっていた。
「角度を変えて見れば、同じ景色でも違って見えるものだよ」
作品名:短編集41(過去作品) 作家名:森本晃次