短編集41(過去作品)
厳密に付き合っていたと言える人が何人いたかは分からない。付き合っていたとしても理想の恋人同士だったかと言われると疑問に感じる。ただ、別れてショックを受けている時間がそれほど長くなかったのは、すぐに誰か違う女性がそばに来てくれたからである。
最初は前の彼女のショックが冷める前だったので、麻痺した感覚のままで付き合い始めた。当然会話もぎこちないのだが、それでも女性はそばから離れない。
「あの時はどういう心境だったの?」
付き合い始めてからしばらくして、その時のことを聞いてみたことがあった。
「どうしてなんでしょう? 私にもハッキリと分からないわ。でも。しいて言えばあなたの中に自分を見た気がするのよ」
という答えが返ってきた。漠然としているが、何となく気持ちは分かる。彼女が寂しがり屋なのも分かっていた。
その頃は、まだ自分がどういう性格か分かっていても、自分に自信を持つことができないでいた。性格が分かっているからこそ、自信が持てないのかも知れない。
三十歳近くなった今日まで、ずっとそんな感じで、別れてもすぐに誰かが現れた。
――役得なのかな――
とも考えたが、本当の恋を見つけることができないのは複雑な気持ちだ。
さすがにまわりの男性で結婚をしている人は少なかった。しかし、自分と付き合っていた女性で、別れてからすぐに結婚した人は多い。
――最後の恋愛だったんだな――
と思うとさらに複雑な心境になってしまう。
複雑な心境が、心神喪失症っぽかった静子を思い出させる。だが、そろそろ本当の恋を見つけられそうな気がしてきたのも事実であった。
会社の帰りにいつも立ち寄る居酒屋で、その女性は一人でいつも呑んでいる。
この店で他の人に話しかけたこともない。まわりが騒がしい時間帯もあって、そんな時間はあまり好きではないのだが、それも、午後十時を過ぎてからがほとんどだ。
竹下はあまりアルコールが強い方ではない。だが一人カウンターに座って料理を食べながら呑んでいる姿を想像するだけでもホッとした気分に慣れる。仕事が終わって店に来る頃はまだ他の常連客は来ていない。午後十時くらいまでに数人の常連客が訪れるが、彼らはまわりの人に不愉快な思いをさせるほど騒ぐ人たちではないので、安心して呑んでいられる。
住宅街の近くにあるこの店は、ある意味常連で持っている店である。駅にそれほど近いわけでもなく、帰りにフラッと一見さんが入ってくるというわけでもない。
店の常連客になってみると、他の常連客と竹下とでは種類が違う。他の常連客のほとんどは、自営業の人たちばかりで、しかもそのほとんどが建築関係の人なのだ。
――それでは賑やかな人がいても仕方がないな――
と思えてくる。
お酒に弱い竹下は、いつも午後十時を回ると帰ることにしている。会社が終わって呑みにきて、ほろ酔い気分で翌日の仕事を考えると、ちょうど午後十時くらいに帰るのがちょうどいい。いわゆる潮時というやつだろう。表に出るとまわりのものがハッキリと見えてくるようで、ほろ酔い気分に浸っていられる一番気持ちいい時間である。
竹下が帰る時間には、いつも一人で呑んでいる女性は、まだ一人で呑んでいる。竹下はビールが苦手なので日本酒を呑んでいるが、その女性も同じように日本酒を呑んでいる。
――ひょっとして気が合うかも――
と思うのは気のせいだろうか?
時々見つめると目が合うことがある。ニッコリ微笑んで挨拶を交わしたことも何度かあったが、なぜか会話をしようとはしなかった。お互いに指定席は決まっていて、その席があまり近くないことも理由の一つだろう。だが、その日は思い切って話しかけてみることにした。理由は簡単、その日仕事がとんとん拍子に進み、自分が考えていた以上にスムーズに進むことなどまずなかったからだ。
仕事に関しての頭の中で思い浮かべるシュミレーションには、上限下限がある。最悪を考えておかなければならないということが理由だが、上限もある程度考えている。上限を設けてもそれ以上うまく仕事が運ぶということは、今までではありえなかった。それだけ段取りが悪いからなのだろうが、逆に言えば、まだ上限には余裕があるということだ。上限を超えても不思議でも何でもないのだが、いまいち自分に自信が持てない竹下は上限を超えることなどありえないと思っていた。
それも自分に対しての自信のなさから来ることで、どうしても、理想が現実を上回ることなどないと思っている。それができるようになればきっと自信が持てるに違いないと思っていた。
それだけに、その日は最初から気分が違っていた。
――自信を持っていいのかな――
と思えてきて、そんな時にはいいことが続くのではないかと思えてならない。思い切ったことができるはずである。
――今日こそは彼女に声を掛けてみよう――
と考えるのも無理のないこと。いつもなら、
――もし、睨まれたらこの店にも入りにくくなる――
という思いが先に立って、話し掛けることなどできるはずもなかった。だが、その日は違う。もし駄目でも、店に来ることとは関係のないことだと思えるのだった。
開き直りとも少し違う。開き直りだと、来れなくなっても仕方のないことだと思うだろう。その時は来れなくなることなどありえないと思ったことからも、開き直りではないのだ。
思い切って声を掛けてみた。どのように声を掛けたのか覚えていないが、帰ってきた笑顔に幾分か救われたことだけは間違いない。
――きっとうまく行く――
思い込みかも知れないが、どうやら彼女も竹下が話し掛けるのを待っていたような気がする。その瞬間から何かが音を立てて崩れていくのを竹下は感じていた。それが自分のまわりを覆っていた殻であることに気付いたのは、それからすぐのことだった。
彼女、名前を綾子と言った。
「あなたのことはいつも気にしていたんですよ。声を掛けてくれそうな雰囲気があったんですもの」
と言って笑っている。
「そうですか? 話しかけたいと思っていたんですけど、意識すると駄目ですね。いざとなると声が出ないものです」
綾子を見ていると、初めて出会ったような気がしないから不思議だ。遠い昔の記憶の中で燻っていたものが、初めてハッキリとしたようなそんな気分である。
しかし、なぜか思い出そうとすればするほど切なくなってくるのはなぜだろう? だから心の奥に封印されていたように思えてならない。
綾子は自分にとってタイプの女性である。
――綾子のような女性を探していたんだ――
と感じたが、それは同時に待ち望んでいた人に出会えたような懐かしさにも通じるものがあった。それが遠い昔の記憶を呼び起こしたに違いない。
前世というものが存在するとすれば、きっと前世で二人は知り合いだったように思う。しかし、お互いの気持ちが成就することがなかったように感じるのは、思い出そうとすると切なくなってくるからだろう。二人の関係がどのような結末を迎えたか、想像することはやめておこう。
もちろん、それが綾子だという保障などない。あくまでも竹下の感覚だ。
「奇遇ですね。私も竹下さんとは初めてって感じがしないんですよ。ここでいつも見ていたからかしら?」
作品名:短編集41(過去作品) 作家名:森本晃次