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リミット

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 結果、孤独という思いは強く残っていたが、そこに寂しさという気持ちはすでになかった。開き直った寂しさは孤独だけしか意識されることはなく、精神的にもスッキリとしたものが残るだけだった。
 だから、幸一の中では、孤独は嫌なものではなかった。
――自分一人の時間を好きに使える時間――
 つまりは、「自由」だということだ。
――誰からも束縛されることもなく、一人で好きなことができる。それを孤独だというのであれば、孤独も悪いものでもない――
 と思わせる。
 ただし、そこには、根底に開き直りが存在していることは意識していた。その開き直りが生死を凌駕させたのだから、凌駕された寂しさを思い出すことはない。実に自分にとって都合のいいことではないだろうか。
 本来なら、たった一人の辛く寂しいはずの時間、それが開き直りと吸収によって、別の精神状態を作り出すことができた。最低の状態のはずなのに、そう感じさせないのだから、これこそ、ポジティブな考えと言えるのではないだろうか?
 ただ、
――孤独でいいんだ――
 と思っていても、彼女ができるかも知れないという状況に陥れば、こんな嬉しいことはない。
――これで最低から這い上がれる――
 と、特定の女性を意識するまでは、感じていなかったはずの最低ラインという思いを意識させられるのだ。
 何とも、自分に都合よくできた精神である。
 理美は、ちょうど幸一が開き直ってそんなに経っていない時に、目の前に現れた女性だった。
――もし、開き直る前に、理美と出会っていれば、どうだったんだろう?
 という思いが頭を掠めたが、それも一瞬だけのことで、
――出会っていたとしても、意識することはないような気がするな――
 それだけ、凌駕された精神状態は、前と後では相当違っていたのだろう。それは陥ったことはなかったが、躁鬱症を持っている人の、躁状態と鬱状態の違いのようなものではないだろうか。
 コンサートの始まるブザーが鳴ると、それまで喧騒としていたホール内が、静寂に包まれる。それでも、これだけ大きな会場で、しかも音響効果抜群な中での状態なので、完全に静まることはありえない。しかも、喧騒とした雰囲気が、ザワザワ程度に収まるまでには、少し時間を要した。
 舞台の中心で、こちらに背を向けて立っている燕尾服の男性の両手は、ちょうど、視線正面くらいに持って行かれていて、ある程度音が収まるのをじっと待っていたが、
「時、ここに至れり」
 と判断したのか、一気に両手を、下に振り下ろした。
 すると、少し間が合って、オーケストラの一団から、大きな音が響いた。響いた音は低音で、お腹にその振動がモロに伝わった。最初のインパクトとしてはなかなかだった。
 その演出に一役買ったのは、指揮棒を振るう手が、一気に振り下ろされてから、演奏が始まるまでの瞬間、最初は少しだけの間だったかのように思っていたが、本当は、結構時間が掛かっていたのではないかと思った。
 その微妙な時間が、大きな錯覚をホールにいた人全員に作用した。本当に絶妙な演出である。
 最初に強烈なインパクトで引きこまれてしまうと、どうしても単調になりがちなクラシックも、長く感じさせる時間を、あっという間に感じさせる力に変えられる。まるで魔力のようなものだ。
 時間的には二時間だったが、たっぷりと堪能できたような気がする。
「あっという間だったわね」
 この思いは理美にも同じだったようで、幸一はその言葉に対して、無言で頷くことで返していた。
「私、コンサートって初めてだったの」
「えっ?」
 これは意外だった。
 今回のデートを提案したのも企画したのも理美だったので、てっきり慣れたものだと思っていたが、
「私、コンサートには、好きな人とデートで最初に行ってみたいと思っていたの」
 と答えた。
――好きな人って、僕のことだよな――
 そう思うと、照れ臭いやらくすぐったいやらで、心地よい気分になることができた。
「理美は、今までに好きになった人とデートしたこと、なかったのかい?」
 この質問には、二つの意味が隠されている。一つは、
――好きになった人が他にもいるのか?
 ということと、文面通りに、
――好きになった人とデートするのが初めてなのか?
 ということだった。
「好きになった人がいなかったわけではないけど、デートしようとまでは思わなかった。そういう意味では今まで好きになったと思っていた人たちに対して、本当は好きだったわけではなく、ただの憧れだっただけなのかも知れないわね」
 と答えていた。
「じゃあ、今日が理美にとって、記念日だということになるのかい?」
「ええ、私にとって、とても大切な日になったのは確かだわ。そういう意味でも、幸一さんと出会えたことに、感謝しないといけないと思うの」
 そこまで言われると、幸一も有頂天にならずにはいられない。
――夢でも見ているんじゃないだろうか?
 そう思って、指で頬を抓ってみる。そんな幸一をニコニコ微笑みながら見つめる理美の目は暖かかった。
――女の人のこんな暖かそうな目、初めて見た――
 そう思った幸一は、今までの考えの主流であった、
「孤独の人生も悪くない」
 という思いから、一皮剥けた気がしてきたのだ。
 コンサートも終わり、
「食事にでも行こうか?」
 と誘うと、
「いいわよ」
 と、その日は二つ返事だった。
 今までなら、
「ちょっと待って」
 と言って、携帯で誰かに相談していたようだが、今回は、素直に応じてくれた。
「今日は、誰にも相談しない理美が、嬉しいよ」
 というと、理美はまんざらでもないような表情をしたかと思うと、
「今日は特別」
 と言って、はにかんでいた。
 その様子を見て、幸一は、
――これで、二人の間にあった見えない壁が一つなくなった――
 と感じた。
 さすがにすべてがなくなったとは思わない。確かに知り合ってから距離が狭まるまで一気に来たと思っているが、何事にも浮き沈みがあったり、リズムがあるというものだ。リズムを見誤ると、自信過剰になってしまい、前が見えなくなることだってあろう。幸一は、それが恐ろしかった。
 冷静と慎重とは違う。ただ、一度冷静にならなければ、慎重になることもできないのではないだろうか。
 この時間になると、普通のレストランはいっぱいになっているか、予約が必要だったりするだろう。
 幸一は、以前から目をつけていたバーに連れていくことにした。バー自体は、自分の常連の店を持っているのだが、まだ連れていこうとは思わなかった。常連同士、わいわいやったことはあったが、そんな仲間のところに、まだ中途半端な状態の理美を連れて行くのに抵抗を感じていたのだ。
 下手に茶化されて、せっかく少しずつ自分に対して気持ちの壁が瓦解しかかっているところに無責任な冷やかしは、今後の自分たちの関係を悪化させ、幸一自身の首を絞めるような結果になることは目に見えていたからだ。
 幸一が連れていったバーは、こじんまりとしていて。静かだった。他に客がいないからそう思ったのかも知れないが、ただ、どこかに懐かしさを感じたのだ。
 幸一は中に入った瞬間、
――初めてきたはずなのに、前にも来たような気がする――
作品名:リミット 作家名:森本晃次