リミット
あの日から、少しずつ幸一の中の歯車が狂い始めた。
――あの日――
それは、理美と出会った日である。出会い自体は、何の変哲のないものだったが、今になって思うと、あの日から自分の見えていた道ではない方へと進んでいっているように思う。
しかし、今から考えても、幸一の目指す先に何があったのか、覚えていない。確かに先が見えていたはずだ。それが、無難な人生の道だったのか、いばらが少しでも見えていたのか分からないが、今よりも希望に満ちていたのは間違いないことだった。
理美と出会って、それからの自分がどうなるのか、ハッキリと見えた。今まで漠然としてしか見えていなかった将来が、映像となって見えてきた。しかし、
――これって妄想ではないのか?
という、当然ともいうべき思いが、見えてきた映像の信憑性を疑わせた。
理美が急に消えてから、また幸一の歯車が狂いはじめた。元々狂っていたのだから、この時に、元に戻す機会もあったのかも知れない。しかし、それはできなかった。それをするだけの勇気がなかったからだ。
――元に戻すことが果たしていいことなのだろうか?
と、余計なことを考えてしまった。
元に戻そうとして、本当に元に戻るのかという危険性を考えると、狂ったままの流れにうまく乗ることを考えた方がいいのかも知れない。戻そうとしても、一度狂ってしまったことで戻るべき場所も、若干の変化がないとは限らない。戻るべき場所だと思って見ている場所も、最初とまったく違った形になっていることも少なくはない。
幸一は、次第に後悔しはじめた。自分の気持ちが未来に流れたのは、理美が消えてしまったことで、自分の不安定な気持ちにすかさず入りこんできた未来に、さっさと身体を許してしまったことをである。未来を好きになったからではなく、自分の寂しさを紛らわすつもりだったというだけに過ぎないということだ。考えてみれば、寂しさと孤独について、講釈をぶちまける資格など、自分にはないのだ。そのことを感じていると、自己嫌悪に陥らずにはいられなかった。
ただ、そのことに気付いたのも、最近の未来が、自分の知っている未来なのかという疑問を抱くようになってからである。
その一番の違和感が、最初の時にあったはずの「男性の雰囲気」がなくなっていることだった。
――未来という女性は、相手によって、男性にもなれるんだ――
と、思った時、未来が同性愛者ではないかと思ったことだ。その思いはすぐに打ち消されたが、
――相手が理美ではなかったか?
という思いが、残ってしまった。
この思いは、結構長く頭の中にあった。未来が同性愛者だという思いはすぐに打ち消せたのに、そこに理美が絡んでくると思うと、そう簡単に打ち消すことができなくなっていた。
――僕は理美のことが忘れられないんだ――
という思いを強く抱くようになったのは、この時からだった。
理美を忘れたくて心が傾いた未来だったはずなのに、未来と身体を重ねることによって、自分の本当の気持ちに気付かされるというのも皮肉なことだ。
未来が幸一の前から姿を消したのは、それから半月ほどしてからだった。未来の場合も理美の時と同じで忽然と姿を消した。そして、未来の存在も同時に、他の人の記憶から消えていた。
今度は未来を探そうという気力はなかった。
――探して、もし見つかったとしたら、僕はその時、どのようなリアクションをとるのだろう?
すでに他人事である。
――どのようなリアクションをとればいいのだろう?
というのであれば、自分の意志が働いているということなのだが、遠くから見ている傍観者のようで、傍観者であれば、どういう行動を取るのか、分かるというのだろうか?
ただ、心の奥にすきま風のようなモノが吹いていた。それは、寂しさから来るものだということは分かっていた。
――孤独なのかな?
と思ったが、同じ寂しさでも孤独とは少し違うものだった。しいていえば、「孤独」というよりも、「孤立」と言った方がいいだろう。幸一は、心の中でそう感じていた。
「孤独」と「孤立」、似ているようだが、ニュアンス的にはまったく違うものだ。
まわりに放浪されながら、辿り着いた先、一人になっていれば、それは「孤独」であるが、まわりに翻弄されるわけではなく、自分の意志を持っての行動であったり、疑いを持たずに行動したことが災いして、結果的に一人になった場合を「孤立」というのではないだろうか。
一人になりたいという意識があって一人になる場合も「孤立」と言えるだろうか?
それは孤立ではない。一番近い分かりやすい言葉とすれば、「独立」ではないだろうか。「独立」は完全に自分は他の人と違う一人の人間として存在することを、自ら意識して暮らしていくということである。人とは違うという意識を無意識にであっても持っていないと、独立は達成できないに違いない。
幸一が自分に独立を意識しはじめるまでに、三年という月日が掛かった。三年を長いと感じるか、短いと感じるかは、その人の持つ気概の違いではないだろうか。
その頃には、未来への意識はなかった。未来が消えて一人になって、孤立を感じたことで、しばらく女性不信にも陥った。
だが、それも冷めてくると、今度は、孤立だけが残った自分をしばし冷静に見ていたのだ。
孤立についていろいろと考えてみた。
――未来に対して変な錯覚を起こしてしまったことがいけなかったのだろうか?
未来は、勘のいい女性だった。付き合っている男性が、少しでも精神的に変化があれば、すぐに分かるだろう。そして、自分のこともよく分かっていた。自分が相手を追いつめていることも分かっていたはずだ。追いつめられる方は、未来に追いつめられると、ヘビに睨まれたカエルになってしまい、足元を見ることができなくなってしまう。
――一歩でも動けば、谷底に真っ逆さま――
そんな状態の時に容赦なく風も吹いてくる。
――このまま、身体の力を抜いて楽になろう――
と、すぐに考えてしまった幸一は、孤立というものが、命がけの覚悟がなければ、成立しないと感じたのだ。
だが、冷静に考えると、最初のきっかけは、必ず相手の女性から始まっていた、自分から始めたきっかけは、すぐに相手に拒否される。あっという間のできごとだ。理美や未来との間のことに比べれば、結末が決まっているだけに、下がることはあっても、上がることはない。自然に意識させる分にはいいのだが、自分からアタックして、相手の意識に入いろうなどと考えれば、相手から毛嫌いされて終わってしまう。
幸一は自分の中に、「寂しさ」、「孤独」、「孤立」と、それぞれ持っていることを自覚した。この三つがどのような絡みで自分に影響を及ぼすのかということまでは分からなかった。
三年経って戻ってきた理美は、以前の理美と変わっていなかった。
そう思うと、幸一は急に別のことを思い出した。
――あれは夢だったんだろうか?
「私行くところがないの」
と、まるで捨てられた子犬のような顔をしていた理美が瞼の裏にいた。
理美が自分の部屋にいて、そして、独立して、そして、また戻ってきて……。
――これって、僕の記憶?