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リミット

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 幸一は、この三年間、理美のことを忘れたことはなかったが、さすがに三年ともなると、記憶も薄れてきた。幸一のことを元気づけようとしてくれる人もいなくはなかったが、どうしても一人になりたい。一人になりたいというよりも、人といるのが嫌なのだ。それでも三年という月日は、そんな幸一に余裕を与えてくれた。
 これまでの三年間が夏だとすれば、やっと最近、秋風を感じるようになった。虫の声もセミの声しかしなかったはずなのに、今は聞こえてくるのは鈴虫の声だけだった。
 鈴虫の声が、涼しい風を運んでくれる。風が身体に当たるだけで、ゾクッとした感覚が、汗を掻いているわけでもないのに、濡れているシャツを感じさせ、体温が次第に下がっていくのを感じた。
――一人でいるのが心地よかったはずなのに――
 秋という季節は、そういう季節だった。
 一人でいると余計にシャツに纏わりついた汗を心地よく感じられる季節で、耳の奥から音楽が流れてくるのを感じた。
 静寂が似合うと思っているくせに、音楽が勝手に耳から流れてくる。本能的なものなのだろう。
 秋は、明と暗、静と動、正反対の感情と本能を持つことのできる唯一の季節だ。幸一は、この季節になると、自分が躁鬱症であることを再認識する。最近でこそ、躁鬱の状況が表に出てくることはないが、秋になると必ず躁鬱を意識してしまう。そのくせ心地よさが残っている。それだけ明と暗がハッキリした季節だった。
 あれは、まだ八月のことだった。盆も終わり、それでも秋の気配が程遠い時期である頃、夕方ちかくになると、いつも頭痛に悩まされていた。
 頭痛は、シャツに汗を纏わりつかせ、汗が体温を奪う頃になると、指先に痺れを伴わせた。
「秋が近づくといつものことだよな」
 と、感じていると、時期的には夏バテではないかと思わせた。
 仕事が終わり、駅まで行くと、一気に汗が吹き出してくるのを感じた。案の定汗が吹き出してくると、指先の痺れを感じ、頭痛を緩和させようと、睡魔が襲ってくるのを感じていた。
 指先の痺れが収まってくると、自然と頭痛もしなくなる。そんな時、気が付けばそのまま駅のベンチで寝ていたこともあったが、その日の頭痛も、そのまままともには家に帰れないほどの疲れが、最後には襲ってくるのを感じさせた。
 やはりその日も想像通り、気を失っていたようだ。気絶まではしていなかったようだが、目の前に誰かいるのを感じながら、相手が誰なのか、すぐには分からなかった。ただ、甘い香りがしてきたことだけは意識していたが、夢の中で嗅いだ香りであれば、すぐに忘れてしまいそうなのに、その時の香りは、絶対に忘れることがないような意識を、頭痛から収まってくるのを幸一はおぼろげながら感じていた。
 その甘い香りは以前にも感じたことがあるような気がしていた。それがいつどこでだったのかということは、もし頭痛さえなければ、すぐに思い出せた気がした。ただ、それが理美ではないことだけは、ハッキリとしていた。
 だが、理美のことをどうしても思い出させる相手だということに違いはない。幸一は消え入りそうな意識の中で、シルエットに浮かぶ女性の顔を思い浮かべていた。
 もし、相手が理美であれば、シルエットまでイメージが浮かんでいても、すぐに想像できるとは思えない。白い煙幕が足元に広がる中、建物も山も海も何もない、ただ空と雲が広がっているだけの世界の中で、じっくりと顔が浮かんでくるに違いない。
――他の女の子の顔が浮かんできそうになるのを妨げるため――
 つまりは、間違って違う子を思い浮かべてしまいそうな気がしているからで、それが誰かということも分かっていた。
 彼女が何を思って幸一に近づいてきたのか、幸一には心当たりがない。
 理美がいなくなってそろそろ三年が経とうとしていたにも関わらず、彼女はまったく幸一に対して近寄ってくる素振りはなかった。
 理美の親友として、幸一の頭の中にずっといた存在感は、未来以外の誰でもなかった。理美には、風が吹き抜ける高原をイメージさせる雰囲気があるが、未来には、足元からドライアイスの煙が立ち込め、顔はシルエットで見えない雰囲気の場所を彷彿させるという、やはり両極端な世界を二人それぞれに幸一に与えてくれる。
 両極端な二人の存在は、二人を比較することで、それぞれに大きなものに拡大させるという効力があった。
 幸一が未来に女を感じたことがなかったかといえばウソになる。特に理美が消えてから三年が経つ。その間、未来のイメージが強まってくることを、幸一は抑えることができない。抑えることを考えることもなかった。
 コンサートの夜、理美が消えてしまい、さらに理美のことを知っている人がいなくなっていた。親友だと思っていた未来も理美のことを知らないという。
「そんなバカな」
 確かに知り合ってからさほど時間が経っているわけではなかった。それだけにこの憔悴は自分でもビックリしていた。
 今までに数人の女性と付き合ったことがあったが、そのほとんどは長く続いたことはなかった。長くて半年、短い時は、一、二度のデートをしただけで、別れを迎えてこともあった。
 幸一は自分から別れを切り出したことはない。すべて向こうから別れを言われるか、自然消滅かであった。理美の場合も、ある意味自然消滅と言っていいかも知れない。
 自然消滅は、最初はショックが残るが、すぐに切り替えることができた。それなのに、理美に対してだけは。ショックの尾を引いたまま、毎日の生活が淡々としたものになり、何が楽しいのか分からなくなっていた。
 それまでの幸一は、ショックを受けている時以外は、毎日の中に、何か楽しみを見つけることができていた。
 理美がいなくなったことでのショックは、一週間経っても引くことはなかった。気が付けば一か月が経っていて、毎日の生活が淡々とした惰性の時期に入っていたにも関わらず、ショックが引いてくることはなかった。
――一体いつまで続くのだろう?
 今まで、ショックから立ち直るには、きっかけが必要だった。きっかけというのは、自然と訪れるわけではなく、ショックを受けている中にでも、まわりの人の気を遣ってくれることが分かってくると、そこに生まれる暖かさが何かを産むと思っていた。それが小さなきっかけとなり、気が付けば、いい方に向かっていることに気付く。そこまで来ると、
「もう大丈夫だ」
 と思うようになり。次第に、
――何をやってもうまく行く時期に差し掛かったのではないか――
 と、思うようになる。それが理美がいなくなったことから立ち直るきっかけで、形になって現れたのが、未来が幸一を訪ねてきたことだった。
「どうしたんですか?」
 急に訪ねてきた未来に幸一は驚きを隠せないまま、何とか平静を装っていた。
「あなたに謝らないといけないと思って」
 未来はあくまでも恐縮している。
「何をですか?」
「あなたが、理美のことを知らないのかって来た時、私は知らないと答えましたが、本当は知っていたんです。知っていてウソをつきました」
「どうしてですか?」
作品名:リミット 作家名:森本晃次