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リミット

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 お手伝いさんはもとより、労働者の人たちは、今やほとんどがサイボーグが行なっている。
 何しろ、疲れを知らない。エネルギーさえ与えておけば、いくらでも働く、そして従順で文句を言うことはない。
 これほど使う方にやりやすいことはない。なぜそんなことが可能になったのかというと、サイボーグを動かすためのエネルギーを実に安価に手に入れることができるような発明が行なわれ、文明が革命的に変わった。
 人の考え方もそこで一気に変化して、幸一の世界とは、完全に常識が違っていたのだ。
 それなのに、理美や未来は、実によく順応していた。それでも、元の時代に戻る時は、自分の記憶を消してから帰らなければいけないというのは、幸一だったら、理解できることだろう。
 実は、幸一も理美が自分の前から姿を消し、理美のことを知っている人が誰もいなかったことに関して、
――理美は未来から来たんじゃないか?
 という思いが頭を過ぎったのも確かだった。
 だが、あまりにも大それたことなので、そこまで考えを突き詰めることができない。突き止めたとしても、それが何になるというのか、理美を戻してくれるのであれば、いくらでも突き詰めるかも知れないが、そんな保証はない。幸一も一人の人間だ。どうしても、頭の中に損得勘定が生まれてきて当然だった。
 幸一は頭のいい方で、想像力が豊かではあったが、いかんせん自分に自信が持てるタイプではなかった。それも、目に見えない力が作用していたからなのかも知れない。
 パラドックスという言葉がある。直訳すれば「逆説」ということになるらしいのだが、理美はこの言葉を「矛盾」の集まりだと思っている。
「親殺しのパラドックス」という言葉を聞いたことがあった。
 タイムマシンに乗って過去に行く。
 そこで、まだ自分が生まれる前の世界に飛び出して、そこで、自分の親を殺してしまったらどうなるか?
 という話であるが、これこそ矛盾の塊である。
 まず、過去に行って親を殺してしまうとどうなるか?
 イコール、自分が生まれてくることはないということだ。
 生まれてこないはずの自分がこの世に存在しなければ、自分がタイムマシンに乗ることも、親を殺すこともないのだ。
 そうなると?
 死ぬはずのない親がそのまま生きているということになるので、そのまま時間が進行すれば、両親は出会って、自分という子供をもうける。
 ここまではいいとして、生まれてきた自分がいずれ、親を殺しにタイムマシンに乗って、過去に行くことになる。
 すると……。
 要するに、親が殺されるかどうかというターニングポイントが、繰り返されることになる。無限ループに突入することになるわけだが、それを解決する発想として考えられるのが、一つは「パラレルワールド」ではないだろうか?
 子供が親を殺しに過去に戻った瞬間。戻る過去が変わってしまっているという考えである。自分の親を殺そうと思い、過去に戻っても、自分が若かりし頃の親に出会うことはないのではないかという考えである。未来を見ていても、時間が重なるごとにたくさんの可能性が広がっている。無限の可能性である。一人の人間には、一つの可能性しか見えていないので、それが一本の線で繋がっていることで、
「世界は一つだ」
 と思うのだ。それは至極当然のことであり、前を向いている以上、それが一番いい姿勢だとされていた。
 しかし、過去を振り返ることは、後ろ向きな考えだということで、あまりいいイメージがない。
 慣習としてもそうであろう。
 だが、逆に言えば、過去を振り返ることをタブーだという考えが、昔から芽生えていたとしたら、これは、過去の人間たちにも「パラレルワールド」という考え方が存在し、無意識なのだろうが。
「過去は振り返ってはいけない」
 と人間の習性として思い知らされているのかも知れない。
 なぜなら、未来に対して、現在のこの一点から、放射状に無数に世界が広がっているのだとすれば、逆もありえることになる。
 現在というのは、いくつもの無限の可能性の中の一点でしかないとすれば、現在から見ると過去に対しても無数に広がるパラレルワールドが広がっていたのではないかと思えるのだ。
 未来に対してパラレルワールドを感じている人は結構いるかも知れない。
「こんなこと話題にすると笑われる」
 という発想がある。
 人には言わないだけで、考えている人は多いと、理美は思っていた。
 しかし、過去に対してはパラレルワールドの発想が脆弱だ。それはなぜかというと、過去と未来の違いを考えてみれば分かることだ。
 未来というものは、これから起こることである、何がどう繋がっていくか分かる人は誰もいない。たとえタイムマシンを使ったとしても、世界全体どころか、たった一人のことでも把握は難しいだろう。同じ時間を逃さず張り付いていないといけないからで、一瞬でも目を逸らすと、目の前にいるのは、違う世界の相手かも知れないからだ。
 その点、過去は違う。
 ある程度分かっていることが多い。特に家族のことなどは、親も子供も忘れられない記憶として頭にこびりついているものだからである。
 理美も、過去のことを分かっているつもりである。ただ、それはパラレルワールドをまったく意識しない「一つの線上」にあることだ。
 それはそれでいい。いや、そうでなくてはいけないのだ。もし、「一つの線」に疑問を持たないことが、矛盾のない滑らかな時の歩みであるならば、少しでも疑問を持てば、そこからは、無限な疑問とループが待っている。そのことを、理美は次第に分かるようになってきた。
――過去に戻って、自分の親を殺す――
 もちろん「欧亜殺しのパラドックス」という発想は、
――「パラドックス」とはどういうことなのか?
 ということを説明するための、一つの「題材:なのだ。
 つまりは、細かいところを突き詰めると、必ず矛盾はある。
 元々矛盾だらけのパラドックスを解明しようとするのだから、最初から正当性を求める方が間違いというものある。
 過去に戻って、親を殺すというが、いつの時代に戻ればいいというのだろうか?
 自分が生まれる前かどうかは、自分の生まれた年月日を考えれば分からないことはない。
 一番問題なのは、
「何年の何時何分にどこに戻れば自分の親がいるか」
 ということである。
 見てきたわけでもないのに、しかも、本人にだって、そんな大昔の記憶があるわけではない。その時点で、親を殺しに行くなど不可能に近いことなのだ。
 タイムマシン自体にも、かなりの疑問がある。
 過去に戻るということだが、ドラマや映画などでは、デジタル時計を少し模倣したようなものを、まるで目覚ましのように使って時間を設定し。レバーか何かを押せば、タイムスリップできることになっている。そんな安易な装置でできるのかというのも冷静に考えれば、不思議なものだ。
 ドラマや映画を作っている人も、そんなおかしな感覚を持っているのかも知れない。
「こんなバカげた装置、誰が作るんだ」
 と思いながら、作品を製作しているのかも知れない。
作品名:リミット 作家名:森本晃次