リミット
この本には、強烈なインパクトを与えられたくせに、肝心なところの記憶が抜け落ちている。そのため、幸一は抜け落ちた部分を想像で結びつけようとするが、一つが結びついても、他の部分にうまく結びつかない。それはまるで完成目前のジグソーパズルのパーツが、一つ合わないことを感じているようだ。
ジグソーパズルのパーツが一つだけ合わないというのは難しいだろう。それは、一つが合わないのではなく、もっと幅の広いところで合わないのだ。一つだけ合わないという考えは、本当は矛盾している、それはここまで作るまでのどこかで、ボタンを一つ掛け違えたことから起こったことだった。
それを探すのは至難の業である。しかも、
――たった一つのために――
という発想が頭の中にある以上は、その考えを乗り越えることはできない。
ジグソーパズルなら、どこまで戻していいのか、少しは見当がつきそうだ。だが、小説ではそうはいかない。それは、パズルのように物理的に全体が見えているものと、本の中の架空の世界という、掴みどころがないことで、前も後ろも読み込まないと分からない内容とでは、最初から目の付け所が違っている。
したがって、本は読みこめば読み込むほど、情報が膨らんでくる。三十ページで三十記憶できたとして、六十ページを読みこんだ時の記憶が六十になるとは限らない、七十にも八十にもなるだろう。膨れ上がる記憶は、真ん中を頂点として、四方に放射状に広がってくる。
最初の記憶は、後から生まれた記憶のさらにまわりに押し寄せられ、端の方が見えなくなるほど膨らんでくる。だから、最初の頃の記憶が小さく曖昧になってくるのだった。
他の記憶や、今までの記憶についても考えてみた。ここまで忘れてしまうような記憶の仕方をしていなかったはずだ。ということは、最初の頃の記憶もそんなに遠くにあるような気がしない。新しい記憶の向こう側にあるのではなく、遠くならない程度に積み重なっているのではないかと思うのだ。つまりは、
「モノというのは、平面で考えるのではなく、立体的に考えないと、間違った意識を持ってしまう」
ということである。
その本のことを思い出して、さらに忘れっぽい性格について理論的に理解できそうになっていたが、このことが理美と自分にとって、どのような意味をもたらすのか、想像もつかなった。
理美は、それからしばらく幸一の部屋にいることになるのだが、
「場合によっては、いつまでもいていいんだぞ」
と声を掛けていた。
元々一人暮らしのつもりで借りた部屋。二人になると狭苦しき感じるのは当然のこと。男二人で住むよりも、本音を言えば、理美と一緒の方が嬉しかった。しかし、それは最初だけのことで、次第に億劫になったり、煩わしさを感じたりしていた。
億劫なのは、相手が女性ということもあり、気を遣わなければいけないところだった。そして煩わしさを感じるのは、やはり相手が女だということで、プライバシーに気を付けないといけないということ。これを破ってしまうと、自分が許せなくなるからに違いなかった。
億劫な気持ちと煩わしさのコンビは、共同生活には最悪の敵である。その二つが両方とも潜んでいるのだから、どちらかが、精神的に崩れてくると、瓦解するのは時間の問題である。
最初に崩れたのは、理美だった。
すぐに怒りっぽくなっていたし、いかにも嫌な顔を露骨にするようになった。
――理美のあんな顔見たこともない――
と、恐ろしくて震えを感じるほどだったが、逆に理美が幸一の顔を見てどのように思っていたのか、想像もしていなかった。
――本当は最初に崩したのは、自分の方だったのかも知れない――
理美を疑ったのは、仕方がないが、それも、自分の精神状態が不安定だったことから、余計に相手が自分を責め苛んでいるような目をしているように見えたのだ。
――すべてを理美のせいにして、自分は早くこの世界から逃れたい――
と思っていたに違いない。
本当は自分の方から崩れたはずなのに、それを相手から崩れたと勘違いした。そのため、最初は精神的に余裕があった。理由は自分に優位性があるからだと思ったからだ。
しかし、実際には自分の方が先に崩れたのだと分かった時、どうしようもない自己嫌悪に陥った。
「理美に悪いことをした」
と思うよりも何よりも、自己嫌悪が先だったのだ。
こうなってしまうと、意地が先に立ってくる。
――僕をこんな精神状態にしたのは、理美なんだ――
と、完全な逆恨みを起こしてしまう。
謂れもないことで幸一から恨まれることになった理美だが、理美には精神的に余裕があった。
いや、余裕というよりも、こういう相手が精神的に不安定な時ほど、本当はコントロールしやすいことを知っていたのだ。しかも、他人にバレそうな時であっても、状況は完全に、理美の方が、
「悲劇のヒロイン」
なのだ。
疑いを向ける人がいたとしても、その疑いの気持ちは長くは続かない。それだけ幸一の精神状態が不安定になっているからで、ある意味、理美の手のうちにあると言ってもいい。理美の思うつぼに嵌ってしまっていたのだ。
理美は、一時期、幸一の部屋から独立した。しかし、理美がいなくなって一人になったことで、幸一は冷静さを取り戻した。
考えてみれば、全部自分の妄想から起こったことで、まわりを見る目が欠如していたことは、人から言われるまでもなく、自分で分かっていたことだった。
幸一は、理美をすぐに呼び寄せようと思ったが、すぐにはできなかった、なぜなら、今呼び戻したとしても、また同じことを繰り返さないとも限らない。まずは自分がしっかりしなければいけないのだと、幸一は考えた。
それは幸一なりに考えて出した結論であり、幸一も自分なりに成長したのだと満足した気分になっていた。
すると、そんな幸一の気持ちを察したのか、理美の方から幸一のところに戻ってきた。
「ごめんなさい。私が飛び出すような真似をして」
と、理美はあくまでも自分が悪いからだという殊勝な態度を示していた。そんな態度を取られて、男の方も恐縮してしまい、
「謝ることはない。謝らなければいけないのは僕の方さ。感情的になってしまって、本当にすまないと思っている」
「そんな、幸一さんが悪いわけではないわ」
「ありがとう、これからは、もっと二人が近づいていけるといいよね」
と、その時の言葉通り、再会した時からこっち、今までで一番仲がよくなっていた。
この期間は本当にあっという間だった。何しろ、前に再会したのは三年という長い月日を費やしてのことだったからだ。
戻ってきてからの理美は、どこか以前の理美とは違っていた。
――すぐには分からないのだから、気にするほどの違いではないのだろう――
と思っていたが、じっと観察していても、なかなか気付かないことに業を煮やしていた。それは、すぐに思い出せそうなことを度忘れしてしまって、思い出せないことが気になり眠れなくなった時に似ているような気がした。