リミット
と、理美が母親を思い出している顔を見ながら、ニコニコしている幸一だった。
「理美も、自分の宝物を大切にするんだろう?」
「ええ、ちゃんと大切にするつもりよ。でも今はこれが宝物だと思えるものがあるんだけど、それが本当にそうなのか、見極めているところかも知れないわ」
と、言って、幸一を見た。
理美の言う「宝物」というのが、幸一自身のことであれば、どれほど嬉しいかと思う幸一だった。
「お母さんの宝物って何だったんだろうね?」
「前に一度聞いたことがあったんだけど、その時は、『それはあなたよ』と言われて照れ臭くなったんだけど、どうやら、お母さんには宝物がもう一つあるようなの。それが何なのか分からないんだけどね」
「お父さんとの思い出かも知れないよ」
「それだったら、ロマンチックよね。私も本当はそうであってほしいって思っているのよ」
この世で、永遠に会うことのない人の思い出は、それ以上よくなることもなければ悪くなることはない。次第に意識が薄れ、忘れていってしまうか、このまま死ぬまで思い出とともに生きていくかのどちらかであるが、後者であれば、これから幸せになれる権利をその人はみすみす逃すことになってしまいかねない。理美の母親はどちらなのか分からないが、静かに温めているところを見ると、後者のような気がする。それでも幸せになれる権利を逃してしまうこともなく、冷静に見守っていける。それが、理美から見ていると、母親の一番暖かな雰囲気を感じるのだった。
だが、母親の宝物は、本当に思い出なのだろうか?
失恋した人が、思い出を胸に生きていくつもりだと言っているのを聞くが、本当にできるのだろうかと疑ってしまう。辛い思い出もあったはずなのに、なるべく楽しい思い出だけを残そうという心理が働くのは分かるが、いいことばかりしか思い出さないと、どうにもウソっぽい感じがする。そんなことをしては、せっかくの思い出も違った形で残ってしまう。まず考え方自体が間違っているのだ。
「お父さんがいないことに関してお母さんは何も言わないのかい?」
「お父さんの話になると、急に寂しそうになってしまう母を見ていると聞けなくなるの。他の人もすぐに気付いて『もうしないから』と言って話題を変えたわ」
幸一は、理美のことを、この三年間で実はほとんど忘れてしまっていた。目の前に理美が現れた時も、一瞬誰だか分からずに、ひょっとすると、訝し気な表情になっていたのかも知れない。
まるでボロ雑巾のように、くたびれた姿を見せた理美に対して、幸一は見る影もなくなっていた理美を見て、逆にそれが理美だと分かったのだ。
まるでさっきの母親が父親に抱いているかも知れない思い出と逆ではないか。よいところばかりを覚えている思い出、そして、理美に対しては、最悪なイメージが頭の中にあったのだろう。そうでなければ、完全に忘れてしまっていたのだと思っている相手の最悪の状態ですぐに思い出せるはずもないからだ。
だが、こんなにひどい状態を三年前に目撃したわけではない。ということは夢で彼女を見た時に、最悪の記憶が刻み込まれたのかも知れない。それにしてもいくら夢で逢ったとしても、火のないところに煙が立つわけもない。どこかイメージ的なものがあったのだろう。特に急に目の前から消えてしまった相手。印象が残ったとしても、異様な印象だったに違いない。
――それにしても、理美が記憶を喪失していたことにびっくりさせられたが、理美と再会して、自分もこの三年間で、理美のことを頭の中から消し去ろうとしていたなど思いもしなかった――
もちろん、無意識にである。意識して人のことを忘れるなど、なかなかできることではない。
――無意識にでも忘れようとしたことは、誰かの力が介在しているのだろうか?
と感じたほどだが、そこに働いているのは人の力ではなく、何か超自然的な摂理のようなものではないかと思えた。
「それって、自然の摂理じゃなくて?」
自問自答してみたが、どうやら、超自然だと思っているのは間違いないようだ。
幸一は、以前友達から借りた本を思い出していた。
その内容は、以前好きだった女の子に再会する話なのだが、その女の子に対しては完全な片想いだった。
「ひょっとして初恋だったのかも知れない」
と本の中では、そんなニュアンスを匂わしている。その本はすべてがアバウトで、決定的な言い回しは極力避けていた。それだけ主人公の思いが多岐にわたっているのではないかと思えるほどで、幸一は、発想の幅を広げながら読んでいた。
そして、再会した時は気付かなかったが、次第に再会した時、自分の中で抱いていた彼女とイメージが違っていたことに気付き始めていた。
元々、再会した時に違和感はあった。
――どこか違う――
と思っていたのだが、それを深く意識しなかったのは、以前知っていた時よりも再会してからの方が、数段イメージがよかったからだ。
人間、いい方に違和感があると、それが正解だと思いがちだ。しかし、それは事実に背を向けることであり、本来なら、分かっていながらそんなことをするのは、都合のいい方へとばかり考えてしまうからだろう。
再会した彼女は、何が違うのかというと、最初に感じた新鮮さがなくなっていたことだった。ずっと会っていなかったのだから、久しぶりに会えば、それだけ新鮮さが増して見えるはずなのに、違和感がないのだ。違和感がないということは、新鮮さが増して見えているわけではなく、逆にずっと今まで一緒にいたと言われても不思議に思わない違和感だった。
一緒にいないのに、一緒にいたような違和感があるくせに、新鮮さがないというのは、いささか矛盾しているように思えた。
それは彼女が最初の時と、再会した後で、違う人間だったからで、それを隠すために、違和感をなくすための工夫がされていた。
彼女には、人の記憶を左右する力があった。ただ、前の記憶をそのままに、新しい記憶に細工をするような器用なことはできない。一度自分に対しての記憶を消してしまって、新しい記憶を埋め込むことしかできなかったのだ。だから、イメージが違ったような気がしたのだ。
彼女の誤算は、彼の記憶を消しに行った時、彼の中にある彼女への思いが、彼が想像していたよりも大きなもので、もちろん、彼女にも想定外であった。それだけに記憶を消しても中途半端だし、中途半端な状態で新しい記憶を埋め込もうとすると、ところどころに矛盾が生まれてくる。
それが逆に新鮮さとして受け入れられたが、彼が本来感じる新鮮さとは程遠いものだった。
この本の設定は近未来になっていた。そこまでは覚えているのだが、なぜかそれ以上のことは思い出すことができない。この本の記憶も肝心なところが消えていた。
――どうして、僕は最近こんなに忘れっぽくなってしまったのだろう?
と考えた時に、思い出すのが皮肉なことに、この本のことだった。