リミット
だが、それを言葉にして表に出した記憶はない。理美への思いすら記憶が薄れているのに、ずっと感じていた思いは忘れないだろうが、それを言葉に出したかどうかなど、覚えているわけもない。
ただ、この気持ちは、他の女性に感じたことはなかった。そこまで相手を好きになったことも、相手との距離の短さを感じたこともなかった。それだけ、理美への思いは特別だった。
「それにしても、一体どこにいたんだい?」
理美をこんなに正面から見つめたことがあっただろうか? 今にも倒れそうな理美を抱え起こそうと、幸一の手は勝手に動き始める。言葉を発したと同時に理美の身体が、崩れるのを感じた。
一気に歩み寄って、抱え起こそうとする幸一。それはまるでスローモーションであるかのように、ゆっくりと時間が進行していた。言葉の余韻を残した状態で、抱き起こした理美は、もう自分では立っていられない。肩に背負うようにして、部屋の鍵を開けて、中に入ろうとすると、今度は幸一の力が急に抜けていき、そのまま二人して玄関先になだれ込むように倒れこんだ。
すでに、発した言葉すら忘れてしまっていた幸一だったが、何とか、理美を部屋の中まで連れて入ると、急いで布団を敷き、そこに寝かせた。
理美を抱きかかえるまでのスローモーションがまるでウソであるかのように、抱きかかえてから、部屋に入れ、布団に寝かせるまで、あっという間の出来事だったのだ。
布団の中に入った理美は、完全に憔悴しきった身体を起こすことができず、そのまま眠りこんでしまった。それでもこん睡状態というほどではなく、スヤスヤと寝息を立てている。その様子を見ていると、三年前の理美への思いがよみがえってくるような気がした。
その時はまだ、
――よみがえってきた気がした――
という程度で、これから思い出すことができる可能性が上がってきている程度にすぎなかったが、実際に顔を見ていると、それが現実味を帯びてくるようで、やはりこの三年間というものは、幸一にとって、あっという間であったことを感じさせた。
幸一は、理美の静かな寝顔を見ながら、三年前のことを思い出そうとしていた。
「あれ?」
なぜなのか、思い出そうとしているのに、理美に対しての記憶がほとんどよみがえってこない。
――あれだけ好きだったはずなのに――
今でこそ、記憶の奥に封印されてしまった理美の記憶だったが、もし再会することができれば、記憶は必ずよみがえるという気持ちが強かった。
それなのに、思い出せないどころか、さっきまで思い出せそうに思えてきたことが、どんどん深みに嵌ってくるかのように、記憶の奥へと潜りこんでいくようだった。
――思い出すために、記憶を手繰り寄せているつもりが、手で奥の方へ押し込んでいるようだ――
と思った。
考えてみれば、穴に手を突っ込んで奥から一つのモノを探し出すことよりも、手を突っ込んで、何でもいいから奥へ押し込む方がどれほど楽なのか。そう思うと、思い出したいという思いよりも、
――楽をしたい――
という気持ちになる方を選んだことになる。
ただ、その楽というのは、傍目から見ると、苦労する方に自ら入り込んでいるように言えることがある。
「まわりからは同情的な目で見られ、さらに、自分が楽できるのなら、どれほどいいものか」
ということを無意識に計算しているのだとすれば、これほどしたたかなことはない。
だがそのことに気付くと、自己満足であることが分かってくる。
自己満足を、幸一はしたくないと思っていた。自己満足で終わってしまっては、そこから先がないからである。しかも、自己満足を自覚してしまうと、何もできなくなってしまうような気がしたからだ。実際に、大学時代自己満足を感じたことがあったが、それが失恋した後、どうしてうまくいかなかったのかという原因を考えていた時にぶつかったのが、自己満足なのだ。
――自己満足は、自分にとって、負の要素でしかない――
そう思うようになったのは、その時からだった。
――理美とのことを思い出せないのは、思い出すことで、自己満足を引き出すことが分かっているからなのかも知れない――
それが理美と付き合っていた時に自分で気付かなかった、
「別れへのパスポート」
のようなものだったのかも知れない。
しかも、そのパスポートは、本人に意識させることのないほど急速なものであり、理美のことを想っている間は、自己満足が自分にあったということを意識させないものだったに違いない。
記憶の消滅は、自己満足の気持ちとともに、記憶の奥に封印されてしまったのだろうか?
幸一にとって、自己満足というのが何だったのか、今では少し分かっているような気がする。
――好きだったという考え自体が、自己満足だったのだとすれば、これほど悲しいことはない――
それを認めたくない自分がいたことで、記憶が喪失していったのかも知れない。そんなことを考えていると、次第に、
――過去の記憶なんて、どうでもいい――
と思うようになっていた。
最初から、そう思っておけばいいはずなのに、そう思えないところが、幸一の自己満足の成せる業ではないだろうか。
次第に気が楽になっていき、いつ目が覚めるとも分からない理美の顔を見つめていた。
「そういえば、じっくりと寝顔を見たことなかったな」
ボソリと言葉にしてみた。記憶が封印されているとしても、こういうことは覚えているのである。きっと感覚が覚えているのだろう。感覚という字には、覚えるという文字が入っているではないか。
理美の寝顔は、さっきまで憔悴していたはずの表情は残っていない。それまで不安しか感じられなかった顔に、安心感が浮かんでいる。それだけで幸一は、
「理美と再会できて嬉しい」
と、思えた。
なぜ今なのか、そして理美は今までどこにいたのか、さらにどうしてあの時、急に姿を消したのか。他の人の記憶までも抹消して……。
疑問は尽きないが、幸一は理美の寝顔を見続けていた。
次の日から、理美は幸一の部屋に住むようになった。
「私、行くところがないの」
突き放すわけにはいかない。その言葉だけで十分だ。何と言っても、理美が帰ってきてくれたのだ。それだけでも嬉しい限りだった。
あまり広くない部屋。それでも誰かが来た時のためにと思って、もう一セットの布団を用意しておいてよかった。まさかその布団を理美が使うようになろうとは思いもしなかった。
一夜明けると、理美はだいぶ元気になっていた。ぼろ布のようになって、表に立っていた面影はだいぶ消えていたが、
「しばらくは疲れやすいだろうから、ここでゆっくりしておけばいい」
と、声を掛けると、
「ありがとうございます」
と、恐縮した様子で答えていた。
疑問を一つ一つ聞いてみたいというのは山々だが、あまりにも多すぎて、何から聞いていいのか分からない。疲れやすいからゆっくりしていろと言った手前、余計なことを聞くのは野暮だろう。
――落ち着いたら、彼女の方から話してくれるだろう――
という思いだけで、今はいいと思っていた。