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リミット

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――本当は、本能は最初からすべて自分の中に備わっているのではないか。最初は、大きな膜のようなものに守られていて、成長とともに、それが次第に明らかになってくる。もちろん、それをコントロールする理性というものがあり、理性が年齢に応じた本能を、絞り出そうとしているように思う――
 と考えていた。
 しかも、本能の膜は再生が利かない。つまりは成長とともに大きくなっていくことはあっても、小さくなることはない。あくまでもコントロールする力の問題なのだ。
 だから、本人の成長が逆行してしまうと、理性で抑えることができなくなり、理性が本能に負けてしまうこともある。そうでなければ、この世の中から、もっと犯罪が減っていなければいけないのではないかと幸一は思うのだった。
 理美と話をしていると、想像が勝手に膨らんでくる。
 特に自分の過去を思い出すことになるのは分かっていたが、いいことも悪いことも、同じレベルで捉えることができるような気がするから不思議だった。
 幸一はこれからの理美との間で、どれほどの想像や妄想が膨らんでくるのかを思うと、嫌な気はしなかった。理美という女性が、どこか架空の存在で、急にいなくなったら、
――最初からいなかったんじゃないか?
 と、思ってしまうのではないかと思うくらいだった。
 しかし、その思いは大きな間違いだった。
 理美がずっと自分のそばにいてくれるという思いが確信に変わりつつある中で、ここまでの順調に仲を育んできた気持ちが、一気に確信へと向かわせたに違いない。その中に思わぬ落とし穴があることを、その時の幸一は知る由もなかった。
「世の中、何が起こるか分からない」
 その言葉を、今まで他人事のように聞いていたが、すぐに身に沁みて分かる時がやってくるのだった……。














                  第二章 三年という月日

 確かに幸一は、理美のことを詳しくは知らなかった。
 知り合ってから長いとも短いとも言えない期間だったが、気が付けば、あっという間だった。
「世の中、本当に何が起こるか分からないな」
 本当は他人事ではないくせに、思わず呟いてしまったことで、笑ってしまいそうな衝動に駆られた幸一だった。
 一緒にクラシックコンサートを見に行った翌日から、理美の消息が忽然と消えてしまったのだ。
 住まいを知っているわけではなかった。コーポに一人暮らしだという話だけは聞いていたが、それ以上詳しいことは聞いていない。探そうにも探すことができない。
 唯一の連絡先だった電話連絡も、メールはエラーとなって返ってくるし、電話を掛けても、
「ただいまお掛けになった電話番号は、使われておりません」
 としか言わない。
「ただいまお掛けになった電話番号は、電源が入っていないか、電波の届かないところに……」
 ではないのだ。
 完全に削除されている。
 合コンで知り合ったのだから、彼女の友達に聞いてみようと思ったが、何と、友達に聞いても、
「理美なんて女の子、友達にいないわよ」
 という返事しかなかった。一緒に合コンに参加した人に話しを聞いても、あの日は、幸一が一人あぶれてしまって、可哀そうだったという話しか聞けなかった。それも一人ではなく皆からだ。
 幸一からいつ聞かれるか分からないようなことを、口裏を合わせられるわけもない。理美という女の子は、幸一の頭以外から、忽然と姿を消したのだ。
「なぜなんだ?」
 幸一は、理美を好きになっていた。
「愛している」
 というところまで言えるかどうか難しいところだが、親密な気持ちになっていたのは間違いない。しかも、それは理美に関しても同じだったに違いない。幸一にとって、理美の存在が、自分の中で固まっていたことは確かだった。
 そんな理美が忽然と消えた。まわりの誰もが記憶に残さずである。
 まるで幸一の頭だけが、どうかしてしまったのではないかと思うくらいで、その時、幸一は、
「どうして、僕の記憶だけ消してくれなかったんだ」
 と、理美が存在していたことを確信しながら、記憶を消さずに中途半端な状態で消えてしまった理美に対して、皮肉の一つも言いたい気分だった。
 掛かっていた梯子に昇るように促しておきながら、昇ってしまうと、その梯子を下から外されたような気分である。梯子で昇った時の、下の世界と、上の世界、そのどちらにも同じ世界が広がっている。上にも下にも同じ人たちがいて、同じような暮らしをしている。それぞれの世界が存在していることを誰も知らない。上の世界の人は下の世界を知らないし、逆も同じだ。
 だが、上下の世界の存在を知っている人がいた。それは理美と、幸一だけだった。
 理美はいなくなったわけではなく、階下の世界の残ったままで、幸一だけが、上の世界に放り出されたのかも知れないなどという妄想が生まれた。
 しかし、上の世界は下の世界とまったく同じなのである。なぜまったく同じ世界が広がっているのか分からないが、パラレルワールドという世界観を思い浮かべれば、分からない理屈ではない。
 今、この瞬間から次の瞬間に移る時、可能性は一つだけではなく、いくつもあるのだ。たとえば、もし自分が、朝起きて、家を出る時、どっちの足で敷居を跨ぐかによって可能性が変わってくる。無限に存在する。それがパラレルワールドというものではないだろうか。
 すると、時間の歪みの中で、紆余曲折があった中、元に戻ってくるパターンだってあるはずだ。そう思うと、別の世界に、まったく同じ世界が広がっている可能性も否定できない。
 そんな上下の世界の別々に、幸一と理美はいる。ただ、気になるのは、上の世界に、もう一人の自分が存在していないかということだが、同じ瞬間に、まったく逆の行動が展開されていたとすれば辻褄が合う。この世界の理美によって、下の世界に追いやられたということだ。
 もちろん、そんなことは普通の発想では考えられない。理美は消えたわけではなく、こっちの世界にも存在していると思うと、何かの力で、幸一には見えないような細工がされているのかも知れない。あまりにも突飛な発想に、さすがの自分も呆れてしまっていた。だが、理美が忽然と消えたのは事実であり、そんな発想をしたのは、
「理美に惑わされた」
 という、まるで理美がキツネだったのではないかと思わせた。
 しかし、キツネに抓まれたとでも思うと、理美の存在自体が架空だったという思いから、次第に理美がいたという意識が薄れていった。それはある一瞬から、急激に変わっていったことだが、その一瞬がいつだったのか、自分でも分からない。
 人が忽然と消えてしまったという事実、そのこと自体、理美の記憶と同じように消えていった。やはり、これもある一瞬からだったのだが、いつだったかは分からない。理美の意識が薄れてくるよりも早かったことだけは分かっている。
――あの時の僕は、どうかしていたんだ――
 と、しばらくの間、ボーっとした感覚が続いていた。
 理美を意識しなくなると、次第に、自分が孤独であることを思い出してきた。その孤独は寂しさから来るものではなく、以前からあった、
「一人の自分も、悪くない」
作品名:リミット 作家名:森本晃次