短編集40(過去作品)
最初の取締役が話した「十年」という期間が何を根拠に出てきたのか分からないが、きっと取締役本人の経験から「十年」なのかも知れない。あるいは、取締役が入社してきた時にも同じような取締役がいて、同じことを言ったとも考えられる。どちらにしても十年という年月は、新入社員にとって気が遠くなるほど長い年月であることには違いない。
――その間は、不満があってもずっと耐えろということなのかな――
と理不尽な心境に陥っていた。何よりも自分の考えを自分で押し殺さなければならないということに憤りを感じ、果たして耐えられるかどうか、自信がなかった。
そんな思いを最初に感じたのは、研修期間が終わり最初に赴任した部署でだった。
研修期間中に聞かされていたマニュアルを忠実に実行しようとしていたところへ、当時の課長から、
「中島君、そんな無駄なことをしてどうするんだ。ここにはここのやり方があるんだよ」
と、他の社員のいる前でなじられたことがあった。一瞬ムッとしたが、
「研修期間中に習ったマニュアルどおりのやり方をしているんですが、それではいけないんですか?」
と聞き返す。
すると、課長の顔が真っ赤になり、てっきりキレるかと思ったが、急に苦笑いになり、
「何を言っているんだい。ここにはここのやり方があるんだよ。その通りにやってもらわないと困るんだよ」
と言い捨てるように踵を返して、自分の席に戻った。言い放つときの視線は完全に見下していて、
――この小僧が何を言ってやがるんだ――
と言わんばかりの視線を感じた。
しかも言うことだけ言うと、
――言うとおりにできないのなら考えがあるぞ――
と背中が訴えているように思えた。新入社員としては、一番堪える態度に出られたのかも知れない。
あくまでも理不尽だ。到底納得できるものではない。会社の共通マニュアルをみっちり勉強してきたというのに、それを根底から覆すのだから、理不尽以外の何ものでもない。
その時に思い出したのが、入社式での取締役の話だった。
――どうしてこんな理不尽な命令に従わなければならないんだ――
憤りは取締役の言葉にも向けられる。最高潮に感じた理不尽だった。
だが、また同時に思い出したのが先輩社員から聞かされた区切りの話だった。
――もう入社して半年は経っている。一年は持つはずなんだ――
と考えていると、不思議なことに怒りが収まってきた。
――別に自分がイライラしたって仕方がないじゃないか――
と考えると、とりあえず課長のやり方でやってみるのもいいかも知れないと思えた。それは決して課長のやり方を全面的に支持しているわけではない。ただ妥協という言葉がそこに存在しないとは言えないだろう。
――妥協――
本来なら嫌いな言葉の一つであるはずなのに、いつ頃からだろうか、知らず知らずに妥協をすることを覚えたように思う。
それは人に従うということではない。自分が存在するための知恵だと思えるようになっていた。時には妥協を余儀なくされて、妥協してしまったことを後から後悔してみたりすることもあったが、だからといって、自己嫌悪に陥ることはなかった。
――生きるための知恵がついたんだ――
と思うようになったからである。
妥協というのは、どこかに一線を引いて、それよりも上なのか下なのかということで判断している。自分の中では、それがちょうど判断できる範囲の中間に位置していることが多いことは特に社会人になって分かってきた。
何に対しても半分に割り切って、それよりも上か下かで判断することがいいか悪いかは自分の判断ではない。ただ、妥協という言葉を考えた時、自分を納得させるための理屈が
――半分で割り切る――
ということに繋がっているのだ。
それを自分では、
――四捨五入のような性格だ――
と思うようになっていた。それも頭の中で思い浮かべた大きな時計の針が、ちょうど真下で止まっている状態が半分だと思っている。数字に関する何事も大きな時計をイメージすることで自分なりに理解する中島ならではであった。
だが、本当はこの性格が好きだというわけではない。
本当はオール・オア・ナッシングという言葉のように、
――すべてが無か――
という考えが根底にあることも否定できない。百でなければ、いくら九十九であってもゼロと同じだという考えである。潔い考えであれば、無謀な考えでもある。少しでも可能性のあるものをまったくの無として消し去ってしまう考え方には、到底共感できないところがあるにもかかわらず、自分の中に存在していることも分かっている。
――二重人格なんだろうな――
と思うところはそのあたりからだ。
「白」という言葉があるが、これが九十九と同じだという。漢字の悪戯にしか過ぎないのだろうが。「百」という漢字から「一」を引くと、「白」という漢字になる。だから、九十九は「白」だというのだ。
百以外はすべてがゼロだという危険な考え方をするのであれば、この「白」というものを否定することになってしまう。それはできないことだった。
物事にはすべて表があれば裏がある。この考え方は学生時代からあるものだが、白の裏は黒である。表と裏を考える時、必ず出てくるのがこの「白」と「黒」という考え方、白を否定してしまうと、黒も否定することになり、それでは見えているものすべてを否定するということになりかねない。
大袈裟なことだが、一度夢を見たことがあった。それは白だけの世界と、黒だけの世界を行き来したという夢で、内容まではハッキリと覚えていないが、表と裏が同じ世界で同居することによって今の世界を形成しているのだということを実感したように思えたのは夢から覚めていく間に感じたことだったのだ。
すべてのことを半分で割り切るというのは、表と裏を自らで感じるということに繋がってくる。それは白と黒ということで、どちらが強いかということが、妥協に繋がる。白と黒のどちらが上で下かということは一概には言えないだろうが、明と暗という意味では上が白であることは言葉通り明白である。
しかし黒い世界を否定できない。明るさがもたらすものに影というものがある。明るさを浴びることによってできる影、それはまさしく自分の分身ではないだろうか。
影は本当に同じ世界に同居しているものなのだろうか?
ひょっとして鏡のような裏の世界が存在し、そこでは自分の影が自分を形成していて、今こうして考えている自分が影として、じっと光の恩恵にしたがって自分を見つめているのかも知れない。
いや、そもそもそんな世界が存在しているとして、その世界を支配しているのは光ではないようにも思える。この世界は光に支配された世界といっても過言ではない。では光以外、つまり暗黒という闇に支配された世界があってもいいのではないだろうか。その世界では影だけが光を持っている。影の世界では光はまったくの別ものなのだ。そしてその世界ではこちらの世界とは反対に動きがまったくない。お互いが見えないのだから、動くことは致命傷なのだ。
何とも信じがたい世界なのだろう。その世界を一瞬垣間見たために、見ていた夢から覚めてしまった。
――見てはいけないものを見てしまった――
作品名:短編集40(過去作品) 作家名:森本晃次