短編集40(過去作品)
特に今の暑い時期には感じない。寒い時期なら空気が乾燥しているから分かるのだが、暑い時期の霧がこれほど乾いた音を出すとは思わなかった。
金縛りも解けたことで、思ったより身体は軽やかだった。暑さも感じない。心地よい風が吹いているのを感じるだけだった。
すぐに角まで来たような軽やかさだが、たっぷりと時間が掛かったようにも感じられた。それだけ風が心地よかったのだろう。
角を曲がるといるはずの人がいない。あっけに取られてまわりを見渡すと、今度は自分がどこにいるのか分からなくなってしまう。
そんな経験を今までにもしたことがあった。いつのことだったか覚えていないが、いるはずの人がいないのだ。まるで狐につままれたというのはこのことのようだった。
自分がどこにいるか分からないと思ったのは一瞬だった。どこの角をどう曲がってきたのかを錯覚してしまって、一瞬我を忘れた状態になったのだ。
――ひょっとして、追いかけているのを知っている彼女が、待ち伏せているかも知れない――
とまで考えたが、いなくなるとは思わなかった。逆に、追いかけてくるのを知っていたから隠れたと考えるのも無理なことではないだろう。
しかもそこにはあるはずの屋敷がない。彼女たちの住んでいる家がないのだ。我に返ってよく見ると、思わず苦笑してしまいそうになるのを必死で堪えていた。
――なんだ、一回曲がる角を勘違いしたんだ――
目の前を歩いているのが聡子だという先入観を持っているので、てっきり、角を曲がれば屋敷が見えてくると思い込んでいた。三回曲がらないと見えてこない屋敷を二回曲がるのだと勘違いしたという偶然も重なった。
それならば目の前を歩いていたはずの女性が消えたのも納得がいく。手前の方に住んでいるのであれば、角を曲がってすぐに勝手口から家に入ったとすれば、見失っても当然である。
――聡子だと思い込んでいたが、違うと言われればそんな気がする――
後姿だけで、しかも髪型も服も以前に見たのと違っていれば、錯覚するのも無理のないことだ。しかも暗闇に街灯がいくつかついているだけの道である。影に気を取られていての錯覚だと思うと苦笑いが起こるのだ。
その日からだった。聡子が気になって仕方がなくなった。もしあの時にいたのが聡子だったら、これほど気になることもないだろう。ちょうど異性に興味を持ち始めた思春期真っ只中、自分の好みも分かっていなかった頃なので、自分が好きなタイプは、
「後姿に魅力を感じる女性」
と答えるだろう。それが聡子のことを指していることは、言うまでもない。
それからも何度か同じ時間に友達の家を出るようになった。もちろん意識してのことでもう一度同じような体験をしてみたいと思っているからだ。ひょっとして今度は聡子に出会えるかも知れない。
だが、聡子は陽一の前から忽然と消えてしまった。これは一体何を意味しているのだろう。
その日のことは高校を卒業するまで、頭の中から消えなかった。きっと差とこのことを忘れなかったからに違いないが、大学に入ると、自分の環境が変わったこともあってか、あまり聡子のことが気にならなくなっていた。
高校時代、聡子のことが好きだったのは間違いないことだ。大学に入り、好きな人が特定していたわけではないので、余計にそのことを感じる。大学は住んでいる土地を離れ、一人でアパート暮らしをしていた。工場が立ち並ぶような街ではなく、まわりが自然に囲まれた少し田舎っぽいところだったこともあって最初は戸惑ったが
――住めば都――
離れられない気分にさせられるところだった。
大学時代に彼女が数人できた。付き合ってすぐに別れた人が多かったが、その理由は陽一の方が入れ込みすぎて相手に重荷になると思わせるところがあったのだ。大学生というと男も女も一人に縛られたくないと思う人が多いようで、彼氏や彼女がいても、友達との時間を大切にしたいものである。
――自分もそうなんだけどな――
と思いながらも、相手にプレッシャーを与えていたのだから、自分で気付かないところで真剣になりすぎるくせがあるに違いない。
しかもそれを相手に求めてしまうのだ。よほど同じ考えを持った人でないと、長続きするはずもなかった。
だが、大学三年生になって付き合った女性は、まさしく求めたことに答えてくれるそんな女性だった。ただどこか病的に考え込むところがあり、時々考え込むあまり、陽一の想像の域を出た行動に出ることがある。そのたびに気を揉むばかりで、精神的にも体力的にも結構きついのだ。
次第にその感覚が短くなると、陽一の方にも少し精神的に異常を来たすようになってきた。
しかも、精神的にきつくなってくると、それを肉体的な接近で補おうとする彼女に誘われるように、お互いの身体を貪っている。その時はいいのだが、ことが終われば後に残るのは虚しさと憔悴感だけである。
――もう、このままだと身体がもたない――
と考えるようになると、陽一の方から離れていくようになった。
――この僕が女性から離れたいと思うなんて――
それまで考えたこともないことだった。いつも女性からふられてばかりだった頃が懐かしく感じられる。それも大学時代の貴重な経験だっただろう。
その彼女とは一年半近く付き合ったが、別れ方が別れ方だったので、それからしばらくは女性と付き合おうとは考えなかった。
ちょうど就職活動時期に差しかかっていたのも幸いだっただろう。就職活動に専念できた。それでもこのご時世、なかなか就職が決まらずに焦っていたが、何とか家の近くの企業に就職が決まると一安心。久しぶりに故郷に帰る気がして、楽しみではあるが、不安が消えたわけではない。
たった四年離れていただけだったのに、それ以上に感じられる。街並みも四年でそれほど変わっているわけではないのに、結構変わったように見えるのは、自分のまわりを見る環境が変わったからだろうか。それとも迎えてくれる街を見る目だけが変わったのだろうか。なかなか分からないでいる。
会社に入って一年はがむしゃらに仕事をしていた。覚えることも多く、何よりも学生時代との違いを身に沁みて感じながら、先輩の目を気にしていかなければならなかったからだ。
人の目を気にするようになったのは、大学生になってからだろう。それまでは普通に考えている通りに行動すれば、誰からも文句が出ないと思っていたからだ。しかし、大学に入ると、社会人ほどの厳しさはないが、学生同士であっても、それなりの規律というものが確立されていた。甘い考えでいるとしっかりまわりからの叱咤があり、おのずと自分の立場を思い知らされるようになるものだ。大学時代の四年間というのは、世間では甘い考えができる唯一の時間のように思っている人もいるが、決してそうではない。大人になるために必要な四年間なのだ。
社会人になって、大学生と社会人との違いを痛感させられる。だが、それも大学時代が回り道でなかったことを教えてくれるのも、大学生と社会人との違いの痛感を乗り越えるからだ。
作品名:短編集40(過去作品) 作家名:森本晃次