短編集40(過去作品)
別に自分が悪いわけではない。医者でもなければ、霊能力者でもない。ただ人よりも早く分かっただけではないか。他の人になら何も感じないが、さすがに自分の最愛の女性であるだけにこれほど悔しいことはない。それよりも、死が近づいたのが分かったことで、彼女をまるで他人のように思っていたのではないかという思いが自分を苛める。
――いっそのこと、こんな能力などなくなればいいのに――
と感じた。きっと何かのきっかけがあればなくなるのだろう。
――何かやってはいけないタブーを犯せば――
そう考えるのは、ミステリーの読みすぎだろうか。
だがどこかにキーワードがあるのは間違いない。人の死を感じるのが匂いからという暗示があるではないか。今は気付かなくとも、無意識に触れていることかも知れない。
そんなことを考えていると、またあの忌まわしい匂いを感じた。鼻の通りがよくなったからかも知れないが、それにしても、鮮やかに匂ってくるのは、明らかに石をかじったようなあの匂いだった。
幻だろうか、目の前に彼女がいたように感じた。
――妄想でも夢でも幻でもいい、もう一度会いたい――
それは夢の中で感じたことだ。夢が楽しい過去も、忌まわしい石の匂いも、すべてあの忘れられない事故死の報告へと誘った。だが、夢だからこそ会えるのではないだろうか。目が覚めれば現実へと引き戻される。夢の中だけで会えるならそれでもいいと感じるだけ気持ちは憔悴している。
他の人が聞けばバカみたいに聞こえるだろう、だが、何も信じられないような気持ちになっていても、
――この世で二度と再び会うことはできない――
ということだけは紛れもない事実なのだ。
そんなことを考えていると、嫌な臭いを感じてきた。明らかに石をかじったような匂い、――誰かが近いうちに死ぬ。誰なんだ――
とっさに感じたが、それは身近な人に思えた。最初はあまり悲しくない人の死だけを分かっていたのに、彼女の死から本当にかけがえのない人の死まで分かるようになってきた。何かの前兆なのではないかと思えるほどで、それが嫌な予感を感じさせるようになってきたのだ。
最近、とても臆病になっている。何に対して臆病なのか自分でも分かっていないのだが、次第に大きくなってくる不安が間近に迫っているような気分になるのは、彼女の死を予感してからずっとである。
それにしても、何と忌まわしい匂いなのだろう。身体に大きな衝撃を受け、呼吸困難になった時に感じる石をかじったような匂い、それは忘れることができない。それと同じ匂いを怪我もしていないのに感じるのだ。自分に降りかかる災難だけでないのは、精神的にきついものだ。
居酒屋ではテレビを写していたが、いつの間にかドラマも終わって、ニュースの時間になっていた。時刻にして午後十時を回ったということである。
何気なく見たブラウン管。おでんを煮ている向こう側に浮かび上がった映像は、沸き立つ湯気にかすんで見える。その中で時刻表示をしていたのだが、「十」という数字が気になってしまった。
――ああ、次の人が死ぬまでに十日しかないのか――
漠然と見ているはずのブラウン管に感じてしまった。横を見ると親父さんも同じようにブラウン管を直視していて、その表情は真剣そのものだ。ニュース内容としてはそれほど真剣になってみる内容ではない。むしろほのぼのしたものだ。しかも親父さんの表情はテレビの番組を見て真剣な表情になっているというよりも、ブラウン管の中の何かに魅入られているとしか思えない。
――きっと今自分がしているのと同じような表情になっているに違いない――
と思える。
――同じことを感じているのかな?
もし感じているとしたら、同じ日数なのだろうか。きっと親父さんも誰かが死ぬとわかっているとしても、それが誰かを特定できる能力までは兼ね備えていないだろう。妄想に近い想像が頭の中を巡っている。
もしそんな能力があるとすれば、もっと切羽詰ったような表情になるように思えてならない。人間というのは、そんな習性を持った動物なのだ。
数字を見ながら呑んでいると、少しずつ酔いが覚めていくのを感じていた。
しかし、横を見ていると、親父さんのペースは上がっていく一方だった。そこが石田氏と違うところで、石田氏は、我に返ると、それ以上は呑めなかった。元々アルコールに弱いから、もう呑めなくなるのだろう。
しかし、親父さんは違う。酒は呑む方で、いつもは豪快な人である。だからこそ石田氏は尊敬しているところがあり、頼りがいがあると思っている。そんな親父さんが酒の力を借りようとしている。どう解釈すればいいのだろう。
そんな親父さんが酒に呑まれようとしている姿は見るに耐えないものがあるが、それは娘の死を正面から受け入れようとしているからだろうか、それとも新たな死に対して感じるものがあるからだろうか、明確には分からない。
しかし見ていて指先が小刻みに震えていて、ブラウン管を直視しながら一言も喋らなくなったのを見ると、これから起こる死に対して少なからずの怯えを感じているからに違いない。
――それにしても一体誰が死ぬというのだろう――
一人で感じていると漠然としたものだが、隣で感じている人がいると思うと、現実味を帯びてくる。言い知れぬ不安というのではなく、もっとハッキリしたものが見えてきそうに思うのだが、思っているほどハッキリしてくるわけではない苛立ちが、身体の中を駆け抜ける。
何とか親父さんを家まで送り届けてみたが、もう帰るには電車がなかった。
「清隆さん、泊まっていらっしゃい」
相手のお母さんから勧められ、結局居間に泊めてもらうことにした。居間は二間続きで隣の部屋には仏壇が置いてある。
そこにある遺影の彼女を寝る前にしばし見ていた。いつも微笑んでいた彼女の顔が、目の前に遺影として飾られている。表情はいつもと同じで、写真でも誰かに対してするような笑顔を見せられる素敵な女性だったのだと、今さらながらに感じていた。
電気を暗くして、目を閉じる。目を閉じた時の方が明るく感じるのは、瞼の裏に明るい残像が残っているからだろうか。
少し赤い色が瞼の裏に残っている。無数に細かい線や模様があるようで、なかなか寝付かれない。気になってしまうのだ。
瞼の裏に線を感じていると、目で追ってしまう。それも人の習性なのだろう。そのうちに瞼の裏の光景が立体感を帯びて見えてくる。
眠っていると夢を見ているという感覚に陥るが、起きていて夢を見ていないとは限らない。起きていても夢のような世界に誘われることもある。中々寝付かれないでベッドの中に入っている時、夢うつつ状態である時に、
――ひょっとして夢を見ているのではないか――
と思うことがある。石田氏の考えとしては、そのうちの半分は夢を見ていて、半分は妄想だと思っている。それは時間という意味で、どこからどこまでが夢か現実かハッキリしないからだろう。
夢を見ている時に臆病風に吹かれることがある。しかも夢を見ていると分かっているから感じるもので、それも潜在意識が夢を見せるという感覚があるからだろう。夢を見ることが現実逃避に繋がることもあれば、夢の中で現実をふと思い出して、
作品名:短編集40(過去作品) 作家名:森本晃次