墓標の捨て台詞
もう和代は呟いてはいない。下を向いていた時間はさほどではなく、また顔を上げると今度は、表情が変わっていた。
――覚悟が決意に変わった瞬間――
五郎が、和代の中に感じた想いは間違いではないだろう。何かを吹っ切った顔をしているからか、変わった表情に、迷いのようなものがなくなったかのようだった。
「実は私。前に付き合っていた人がいたんです。五郎さんは、そのことを誰かからお聞きになりました?」
――やはりそういうことか、だけど、それだけではないような気がするが――
という思いもあったが、とりあえず、和代の話を聞くしかなかった。
和代は続ける。
「その様子では、ハッキリは聞いていないけど、ウスウスは分かっていたというところでしょうね」
洞察力はなかなかのようだ。
「その人は、横田さんといって、同じ会社の営業の人でした。だから、五郎さんから見れば先輩に当たる人ですね」
「そのようですね。和代さんは、その人のことを、横田さんと呼んでいたんですか?」
「ええ、名前で呼ぶことはなかったです。最初は年上だったので、苗字で呼ぶのが当然だと思っていて、付き合うようになってからも、そのままでしたね。横田さんもそのことについては触れることはなかったですし、私もこのままでいいのかなとも思いましたけど、急に変えるのも不自然に思えて、結局、横田さんという名前で呼んでいました」
「じゃあ、横田さんは、和代さんのことは何と呼んでいたんですか?」
「和代、と呼び捨てにしていました。私がそう呼んでほしいと言ったわけではないんですが、気が付いたら、そう呼ばれていました。私には、きっとそう呼ばれることが安心感を呼ぶということに気が付いていたのかも知れませんね」
「じゃあ、僕も和代と呼びたいな」
まずは告白に対しての、軽いジャブのつもりだった。和代にその思いが伝わるかどうかは、問題ではなかった。五郎の中だけの頭の整理ができれば、それでよかっただけのことである。
「いいですよ。私もそう呼ばれたい」
軽いジャブを、和代は受け止めてくれたようだ。
「横田さんとは、どれくらいのお付き合いだったんですか?」
本当は、付き合っていたことを聞きたいのは期間ではなかった。だが、まずは期間を知ることで、和代がどれほどの苦しみがあったかを、外観からでも見ることができると思ったからだ。
「三年ですね」
三年という期間は、聞いてはみたが、五郎には想像できるものではなかった。今まで長くても数か月。それ以上の付き合いはなかったからである。自然消滅と、突然の別れ。それ以外を経験したことのない五郎は、本当に経験値は低かったのだ。
三年前というと、五郎はまだ二十歳の時、大学時代で一番楽しかった時期にも当たる。何をしたいか、将来どうすればいいのかなど、漠然としてしか考えておらず、ただ、目の前のことだけを見ていただけだった。
そう思うと、和代の過ごした三年間、五郎の知らない三年間がどれほどのものであったか、想像できそうにもないと、最初から臆してしまったように思えた。臆してしまったことで却って、想像力が増してくるのではないかと思う気持ちもあったが、想像することが怖い気持ちが強く、話を聞くまでは、先走っての想像は禁物だと思えたのだ、
五郎は、今まで付き合った女性のことは、先走って想像してきた。
――自分とは随分違った環境で育ってきたんだな――
という思いは誰に対してでもあったが、和代に対しては。同じ違ったという言葉が前についても、
――自分とは随分違った人生を歩んできた――
と考えるのだ。
どこに違いがあるかと言えば、明らかな違いは、和代には以前付き合っていた人がいたということである。今までに付き合った女性にもいたかも知れないが、想像する時は、話を聞く前だったので、誰もいなかったものとして考えていた。
相手の環境に誰か他の人、大きく関わったであろう人がいたと思うと、その人を見る時は「環境」ではなく、「人生」を見ていることになるからだ。
自分の知らない誰かと、人生を歩んでいた。それは横に並んで歩いてきたのか、それとも三行半で、後ろから黙ってついて行ったのかは分からない。聞くのが怖い気もするが、五郎は告白しようと決意を固め、それが覚悟に変わったのだ。
和代にとっての三年間の人生、それはその人の現在を写す縮図ではなかったか。彼女の中にある三年間を無視して付き合っていくことは、五郎にはできないことだった。もし、和代が三年間の話を五郎に黙ったまま付き合うような人だったら、五郎の目が節穴だったことになる。今まで付き合ってきた相手とは自然消滅だったり、突然の別れを切り出されたとはいえ、五郎の目は自分では節穴だとは思っていない。後から思えば、自分だけが悪かったわけではないと思うようになっていた。
「別れが、その人を大きくする」
という言葉がウソでないとすれば、五郎は間違いなく成長している。そかも、もう学生時代とは違い、人間関係に関しても、それなりに経験しているつもりである。そんな五郎は、覚悟ができた瞬間、開き直りとともに、自分の成長も確信していたのだ。
そんな五郎に対して、和代の態度は大人だった。告白しようとしている五郎に対し。秘密にはしておけないと思ったのだろう。放っておいても、誰かの口から耳に入ることが分かりきっている。それならば、自分から話をするのが、一番いいと考えたに違いない。
確かに横田の話題は、会社内ではタブーのようになっていた。誰もが触れないようにしていたが、誰もがしゃべりたくてウズウズしているような環境、一触即発な状態は、それまで他人事だった五郎には、それほどビリビリくるものではなかった。もしあったとしても、心地よさすら感じさせるものだっただろう。
だが、実際に渦中に入り込むと、身体に電流が走ったような感覚に陥る。それもずっとではなく、定期的に襲ってくる電流、身体が慣れてくるわけではないので、刺激というには厳しい状態がずっと続いている。
横田の存在がどうしても大きくなってくる中で、五郎は、和代の話を待った。和代は何をどう話していいのか考えているのだろう。いかに話せば一番自然に話ができるかということになるはずだ。
「三年というと、長いのか短いのか僕にはよく分からないけど」
話のとっかかりになればいいと思い、五郎は答えた。
「そうですね。私にも正直分かりません。でも、分けるとすれば、一年単位かも知れませんね。少なくとも最初の一年が一番楽しかったのは間違いないです。それ以降は楽しさという意味では。あまり感じなかったかも知れない。それ以上の感覚、もう少し現実的なものが私たちの前に立ちはだかったような気がするんですよ」
そういうことであれば、確かに三年という期間が長かったか短かったか分からないかも知れない。
「遅すぎた春」
という言葉があるが、三年という期間は、男女の気持ちがすれ違いから生じる修復不可能な亀裂を生むには十分な期間なのだろうか。