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墓標の捨て台詞

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 今、五郎は自分が後になって和代のことを思い出しているという意識を忘れかけていた。だが、実際に思い出そうとすると、和代という女性ほど、時系列で思い出すのが難しい女性もいない。思い出としては、古いものであるにも関わらず、その時々を点で捉えると鮮明に覚えているのに、時系列に並べようとすると、なかなか難しい。過去の思い出を思い出すのが難しいのは、個々の記憶というよりも、時系列で結びつけることを一緒にしてしまいそうになるので、自分で難しくしすぎているのかも知れない。五郎は、最近になってそう思うようになっていた。
 次の日になって、和代に告白する決意を固めた五郎は、和代をドライブに誘った。今までに何度かドライブに出かけたが、夕方から出かけるドライブは初めてだった。
 場所は海の見える小高い丘だった。夜になればあたりは真っ暗で、本当はムードもないのかも知れないが、五郎にとって、海の近くは特別な思いがあった。
 本当は潮風が苦手である。小学生の頃に、家族で海水浴に何度か出かけたが、帰ってきてから、決まって熱を出していたのだ。潮風が気持ち悪く、潮の独特の匂いが、五郎には辛かった。
 身体にべたつく潮の感触は、魚臭さが元々苦手だった五郎には、ダメ押しに近い形で海を嫌いになる決定的なきっかけを作ってしまった。それでも発熱の原因が、最初は海にあるとは分からなかったのは、相当海に対して甘い考えを持っていたからに違いなかったのだ。
 それなのに、五郎はどうして、告白の場面を、その嫌いな海辺に決めたのだろう? 和代が海を好きだと言ったわけではない。五郎にしてみれば、きつい思いのある海辺で告白することで、逃げられないような環境を作ることで、何かを覚悟しなければいけないとでも思ったに違いない。
 ただ、覚悟しなければいけない何かを、五郎はハッキリと把握しているわけではない。海に来たのも、気持ち悪さを忘れるくらいに緊張しているからなのかも知れないが、来てみると確かに気持ち悪さを感じることはなかった。
 季節がまだ、春だというのも、さほどの気持ち悪さを感じさせない理由の一つかも知れないが、すでに初夏の息吹は近づきつつあった。梅雨を思わせる雨もその頃には降っていて、いつ梅雨に突入してもおかしくない状況でもあった。
「僕は、海って、本当は好きじゃないんだ」
「じゃあ、どうして私を連れてきたの? 私が海が好きだと思ったの?」
「それもあるんだけど、夜の海は昼の海とは違って、僕が好きではない海とは違う海が広がっているんだよ」
 そう言って、五郎は身を乗り出して海を見ながら、さらに続けた。
「この向こうには海が広がっているはずなんだけど、僕にはハッキリと見えないんだ。昼間を知っているから海だと分かるけど、知らなかったら、海だなんて、想像もしないだろうね」
 五郎は何が言いたいというのか。
「私も、この吸い込まれそうな景色、本当は怖いんだけど、あなたといると、不思議ね。怖い気がしないの。こんな気分になったのは、久しぶりだわ」
 と、和代がいう。
――こんな気分になったのは久しぶり?
 その言葉の裏には、以前にも同じような気持ちにさせてくれた人がいるということか。もしそうなら、五郎は、二番煎じを演じていることになる。自分の本意ではない。だが、ここまで来て、気持ちを元に戻すことなどできない。もし、和代が過去のことを思い出そうとしているとしても、五郎の感情から生まれた行動を妨げることなどできるはずもなかった。
 海の見える丘の向こうに広がる果てしない暗黒の世界。怖いはずの世界が、一緒にいる人のおかげで、まったく違ったものに見えてくる。目の前に広がっている世界が、ウソかまことか、それは、これからの五郎の告白で決まってくるのだった。
 吸い寄せられるような光景は、身を乗り出した五郎に何を見せるのだろうか。最初は何も見えないが、目が慣れてくると、見えてくるものがある。吸い寄せられる光景に、最初はざわついていたような波の音が次第に気にならなくなってくる。
 だが、何も聞こえないわけではない。気にならないと言っても、ざわつきが減ってきただけで、ざわつきが減った分、定期的に聞こえる音は、リズミカルに感じさせられた。
 遠くの方で光が点滅しているように見えたが、どうやら、灯台があるようだった。そういえば、ここは入り江になっていて。左側の奥は断崖絶壁の岬になっていると聞いたことがある。
 断崖絶壁を思い浮かべていると、そこには灯台があっても不思議のない光景が目を瞑ると瞼の裏に浮かび上がってくる。
「和代さんは、この景色、初めて見るわけではないようですね」
 五郎はすでに、和代のことを、舌の名前で呼ぶようになっていた。和代からいいも悪いも聞かされたわけではないが、嫌われるのを覚悟で、呼んでみた。
 嫌われるのを覚悟とは言っても、和代の性格からして、嫌うわけはないという思いの元ではあったが、五郎としては、それも冒険の一つであったことは、疑いようのない事実であった。
「ええ、初めてじゃないわ」
 何か、海に向かって話しかけているように見える。
 最初の五郎が。自分の決意を覚悟に変えようと、前の海を、見えない海を、何とか見ようと試みたように、今度は、和代が前の海を見つめている。
 それは、決意を覚悟に変えようとしている五郎とは違い、和代の場合は、逆に覚悟を決意に変えようとしているのではないかと五郎は思った。海を見ながら話しかけていることに、五郎のまだまだ想像も及ばない何かが、和代にはあるに違いないのだ。それが会社で聞いたおばさんたちの会話に結びついてくるのだと五郎は思っている。
 五郎は、初めてではないという和代の話を聞いていたいという衝動に駆られている。最初は、何かあるのであれば、和代が話をしてくれるだろうから、それまで待てばいいのだと思い、聞いてみたいとまでは思わなかった。もちろん、その時も、気持ちの上では聞きたいと思わないというよりは、聞いてはいけないことだとして何とか思いを封印しようとしていた、だが、気持ちとは裏腹に湧き上がってくるもの、それが不安だと感じた時、聞いてみたいという思いは、衝動に駆られている思いだと感じるのだった。
 今の和代を見ていると、話しをしてくれそうに思うのと、このまま気持ちを封印してしまおうとしている気持ち、五郎が思うに、半々に思えている。
 和代は、迷っているというよりも、心の中にあるわだかまりを何とか振り払おうとしているかのようである。とうことは、わだかまりさえなくなれば、和代は五郎と付き合う気持ちが固まるということである。
 五郎の勝手な思い込みであるが、この思い込みには確信が隠されているように思えてならない。
 五郎の中には。確信が表に出てくる感覚を持てる時が時々あった。それは口では言い表せるものではないが、気持ち的に自分の中での確信が表に出るというよりも、表から見た自分が身体から滲み出るのが見えるような感覚を確信というのであった。
 海を見ていた和代は、まだ、何か呟いている。その視線が次第に下に下がっていき、ついには俯いてしまった。
作品名:墓標の捨て台詞 作家名:森本晃次