墓標の捨て台詞
「どういうことだい?」
「もちろん、意識の上でのことなんだけど、時々、子供の頃に戻ったような感覚になったり、将来の自分が見えたりするのよね。それも信憑性があるようで、怖いくらい。かなりリアルという意味でね」
「子供の頃のことは、僕もよく思い出したりするんだけど、将来のことまでは想像できないかな?」
「でも私が思うに、それはできないんじゃなくて、できないって思いこんでいるからじゃないかって思うの。将来のことがイメージとして浮かんでくるのは、決して不思議なことじゃない。それは時系列でしか物事を考えられないと思い込んでいるからじゃないかって感じるのよ」
「そこでまた時系列に戻ってくるんだね」
「五郎さんは、自分が堂々巡りを繰り返しているって思ったことはない?」
ハッとしてしまった。堂々巡りを繰り返しているという感覚は、今までに何度も感じたことではないか。
「あるよ。それもいつも感じていることかも知れない。でも、それは狭い範囲の中で蠢いているような感覚で、時系列を意識しているわけではないと思っているだ」
時系列という感覚は堂々巡りと別物だと思っていた。それは時系列には逆らえないという感覚があるからだ。ただ、時系列を変えることができるとすれば夢の中だけのもので、それは現実とは交錯するものではないという思いのもとに立っていることを示しているのだった。
「五郎さんが考えていることは間違いではないわね。でも、私との話の中で、それが少しずつ広がってくることを意識してくれていれば、嬉しいと思うわ」
人生経験が人間を大きくするという言葉にウソはないが、話だけでも、相手を納得させられるだけの説得力を持つには、それだけではないように思う。自分の経験を他人に押し付けても、結局はゴリ押しにしかならない。却って反発を生む結果にならないとも限らない。
時系列に関しては不思議な感覚があった。
――同じ時間を繰り返している――
と感じたことが何度かあるが、たまに、数分先、あるいは数分前の自分を感じることがある。ただ、それは夢の中で想像したことへの感覚であって、決して交差することはありえない人間だからこそ、見ることができるのだろうか。
数分前の自分であれば、記憶に残っているはずなので、分からなくもないが、数分先の自分を感じるということは、先に進んでいる自分が、後を進む自分を意識することで、客観的に感じることだろう。ただ、それも限界があり、絶えず感じることができるわけではない。共通点があるとすればどこなのか、想像もできなかった。
ただ、数分先を進む自分が本当に未来の姿なのか、それは分からない。現在に続くものが未来であって、必ず過去からの続きとして未来が存在しているわけではないという思いが働いていた。そこにはハプニングも含まれている。未来とは、そんなハプニングまでもすべて含んだものであるとするならば、今の自分には予測不可能である。言い換えれば、ハプニングさえ予期できれば、未来を予知することは不可能ではないと言えるのではないだろうか。
――頭がおかしくなってくる――
まるで箱を開けたらその中に箱が入っていて、さらに箱を開けると、その中にはまた別の小さな箱が……。そんな感覚を感じたことがあるのは、五郎だけではないだろう。
「私は五郎さんと、こうやって話している時間が好きなの」
「僕もそうだよ、きっとこんな話ができる人を探していたのかも知れないと思うんだ」
その日の香織はいつになく激しかった。気持ちのタガが外れたかのように、五郎を求めてくる。
五郎も思いを香織にぶつけていた。元々受け身だと思っていたセックスも、香織が相手だと力が入る。
相手が受け身なら奉仕に燃え、相手が奉仕好きなら、受け身に徹する。それが五郎のセックスだったが、香織との間では、気持ちをぶつけている。どんな相手でも逃げているつもりなどないが、香織が相手だと、今まで何かから逃げていたように思えた。逃げていたものが何からなのか分からないが、気持ちをぶつけて、跳ね返ってきたものに生命を感じる。
生命は一定間隔の息吹を発している。心臓の鼓動を感じているようだ。息吹は熱を持っている。鼓動に熱。これが生命の源ではないのだろうか。
「私の結婚というのは、本当に平凡なもので、自分が生きてきた中で、一番自分らしくないものだって思っているのよ」
先ほど話した平凡とは、言葉の意味が違っているようだ。
「どういう意味なんですか?」
自分らしくないことが平凡だと言っているが、自分らしいことは平凡ではないということである。五郎も何となく分かるのだが、それは、香織には平凡という言葉が似合わないということだ。
五郎は自分の中の「らしさ」を思い浮かべてみると、そもそも香織と付き合っていること自体、自分らしくないと思うのだった。
――数分後を歩んでいる自分なら、香織のような女性と付き合っても不思議はないかも知れないな――
漠然としてだが、そんな風に思った。
数分後を歩いている自分は、本当に今の自分の「分身」なのであろうか? 分身である必要はないのかも知れない。同じような考え方であれば、まったく違った雰囲気を醸し出していても、それは自分だと感じる。他の人が感じなくとも、自分がそう思うだけでそれだけでいいのだ。
逆に考え方は違っても、外見や風体が同じで、誰もが見間違えるようであれば、それも分身だと考えて間違いではない。
「パラレルワールド」
という言葉を聞いたことがある。まったく違う世界が同じ時間に無数に存在するという考え方だ。それは「次元の違い」という言葉で表現することもでき、四次元と三次元、三次元と二次元でも違っているが、四次元という世界でも、それぞれに時空を超越したものが存在しているという考えもあるようだ。難しいことは学者の先生のような専門家でしか分からないが、考えてみれば考えられないこともない、漠然とした理論なのだろう。
五郎は、次元の違いを、「生と死の世界」の狭間としても考えることがある。不気味な話であるが、三途の川であったり、天国と地獄であったりと、あの世へ思いを馳せればいくつもの世界が想像されている。
「生と死の世界」を人類の永遠のテーマだとする人もいる。宗教もその考え方によっていくつもあるのと同じである。だが、その多くは崇拝すべきものがあり、戒律のようなものが存在し、
「この世があって、あの世がある」
と、まず中心はこの世界であり、想像される世界のために何をすべきかが説かれているのだ。
そう思うと、
「あの世の世界の創造にも限界があるんだ」
と思えるようになっていた。
どんなに創造しようとも、潜在意識を超えるものはありえないのだ。だからこそ宗教では絶えずの鍛錬が必要であり、潜在意識をいかに増幅できるかということが重要になってくる。潜在意識が調節した世界を作り上げるのが、宗教ではないかと五郎は感じるのだった。
「想像と創造の違い」
というものを考えたことがあった。
「想像することで、創造ができあがると思っていたが違うだろうか?」
発想が作り上げるもの、それが創造であろう。