墓標の捨て台詞
そんな気はしていた。香織に感じる妖艶さは、結婚経験があるが、男性に対して、まわりの誰にも負けたくないと言った闘争心のようなものがあるのではないかと思っていたからだ。
だが、闘争心というのは少し違う。ライバルがいて、その人に負けたくないというのであれば、自分の中の女を磨くという意味もあるのだろうが、そういう人がいるのであれば、付き合っていれば分かってくる。香織に感じるのは孤独感である。ただ、同じ孤独感でも、寂しさを感じさせる孤独さではない。もっと力強いものだ。今まで一人で生きてきて、これからも一人で生きていくという感情が見え隠れしている。
そんな香織の中に五郎はいる。そのことを五郎は誇りにも思えるほどだった。
「結婚経験なら、僕にもありますよ」
「そうだと思っていたわ。そういえば、私たちって、ほとんどお互いのことを何も話していなかったわね」
今さらながらという顔で香織が微笑んでいる。
「それだけ、お互いに違和感なく付き合っていられるというわけだよね。過去なんて関係ないって思ってる?」
「いいえ、そんなことは思わないわ。だって、過去があって現在がある。現在があって未来がある。私はむしろ、過去は大切だと思う方なの。でも、こだわるつもりはないのよ」
「と、いうと?」
「過去、つまり昨日があって現在、つまり今日がある。今日があって、未来、つまり明日がある。さっき平凡な暮らしのお話の時に言ったでしょう? 感覚的なものを持っているから口から出てきたのよ」
「こだわらないようにすることってできるんですか?」
「こだわるという言葉が漠然としているから難しい言い方になるのかも知れないけど、一口に言うと時系列というものは、逆らうことのできないもので、それをどう受け止めるかということでしょう?」
「時間の流れは変えられないと?」
「その通りね。変えてしまうと、すべてが変わってしまうでしょう? ここで言うすべてという言葉も曖昧なんだけど、自分だけではないという意味ですべてという言葉を使ったんだけどね。それだけに、だから人間は、時系列を意識していないのよ。本当は絶えず意識しているのにね」
「それって、まるで心臓の動きみたいですね」
「そう、心臓は意識して動いているわけではないけど、止まってしまうわけにはいかない諸刃の剣のようなものでしょう? そういう意味では同じなのかも知れないわね。そういえば、五郎さんは、こういうお話って私以外の人と話したことがあった?」
「あったと思うんだけど、相手が誰だったか、思い出せないんだ」
実はこの言葉は半分ウソである。思い出せないわけではなく、さっきまでは誰かと話したのを意識していて、相手が誰だったか覚えてもいた。しかし、不思議なことに、ここで香織と話をしている間に忘れてしまっているのだ。
「そうなんだ。私も以前にこういうお話をするのが好きな男性とお付き合いをしたことがあったの。その人は元旦那というわけではなかったんだけど、その人とは結構長い間付き合っていたわ。交際期間が終わってもお友達として、いろいろアドバイスしてくれたのよ。そういう関係って信じられる?」
「僕にはそういう経験はないけど、でも、信じられる気はするね」
今まで付き合った女性を思い出した。だが、彼女たちには考えられないことだった。別れる時は壮絶な別れが待っていて、落ち込んだら立ち直るまでにかなりの時間を要したものだ。
「その人とは、もう会うこともないんだけど、でもその人には他の男性にはないものがあった。たくさんあったというわけではなく、その部分だけでも彼を忘れられなくなるのに十分だったわ」
今まで付き合った男性の話を、付き合っている女性から聞くのはあまり気分のいいものではない。だが、香織に関して言えば、そんなことはなかった。それだけ香織を真正面から見つめていたいという意識が働いているのだろう。香織の一言一言に重みを感じているのだった。
「僕にもそんな人がいたような気がしていたんだけど、今では思い過ごしだったのかも知れないって思うようになってきた」
「思い過ごしではないと思うけど、でもそう思うようになったということは、きっと五郎さんの中で新しいステップに入ったことを示しているように思うのよ。恋愛感情だけではなく、異性に対しての思いって一つの感情だけではなく、他にもいっぱいあるような気がするのよね」
お互いにバツイチだということで、
「同じバツイチ同士だね」
などという言葉は必要ない。下手にそんな言葉を口にすると、却ってお互いがぎこちなくなりそうだったからだ。バツイチがマイナス思考だというわけではないが、プラスに考えようとしている発想の中では不要なものである。その証拠に会話はとどまるところを知らずに、時間の感覚を忘れるほどに、弾んでいるではないか。
「香織さんも、いろいろな経験をされているんですね」
「そうね、自分でも、それは思うわ。だから、こういうお話をするのは好きなんだけど、できる相手はしっかり吟味しているつもりなのよ」
五郎も同じだった。ただ、五郎の場合は自分から話し始めるわけではなく、相手は始めた話に乗っていくだけだった。だが、それも相手が吟味した中で、
「この人なら、こういう話をしても大丈夫だ」
と見てくれたからだろう。そういえば、
「お前だからこそ、こういう話をしているんだ。他の人にはちょっと話しにくいからな」
と言われたことがあった。そう言われると嬉しくて有頂天にもなる。それだけ調子に乗って口調も滑らかになるというものだ。
香織に感じていたのは妖艶さだけではなく、こういう話もできるところに大人の女を感じていたのだ。
「香織さんは、結婚についてどう思ってますか?」
「結婚というのは、最初は憧れから始まるものなのよ。相手がハッキリする前から意識するのは、憧れがあるからだと思うのよね。でもその中にある不安をその時はあまり意識していない。だから、相手を意識し始めると、不安が少しずつ頭を擡げてくる」
「確かに不安は見え隠れしているんでしょうね。憧れや期待があれば、その裏には必ず不安が燻っているものなのかも知れないね」
「そうなのよ。それを意識していないから、未婚の人と、結婚経験者とでは大きな違いがあるの。結婚経験者の話を未婚の人が聞いても、きっと納得できる人はいないでしょうね。納得できると思っているのは、錯覚なんじゃないかしら?」
「そこまで言い切ります?」
「ええ、五郎さんも、感じていることじゃないのかしら?」
確かに香織のいう通りである。
五郎は、今までの自分を思い返してきた。それは、一つの大きな物語を形成していて、すべてを繋げて考えられるものだと思っていたが、果たしてそうなのだろうか?
香織と話をしていると、すべてを時系列に伴って、一つの大きな物語にしてしまうのは少し違っているのではないかと思うようになっていた。
確かに事実だけであれば、時系列以外の何者でもないが、意識の中にある潜在意識であったり、その時に感じた思い、さらには。将来のことを夢に見たように思う不可思議な感覚、それは時系列だけで説明のつくものではない。
「私は、自分の中で年齢を意識できない時があるの」